ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第587回】日米のマスコミとFC

 先週は鶴見さんのようにタイトルを獲ってもないのにベルトを巻いた写真を撮った選手たちについて書いた。「メキシコの選手は勝手にベルトを持ち出して写真を撮ったりしないのですか?」という質問があった。海外へ行くようなエストレージャは、そういう宣材写真を持ち歩いているが、他人のベルトを拝借した写真を撮るような選手はいない。でも、例外はあった。それは下の写真。ブラソ・デ・プラタがUWA世界ヘビー級のベルトを持った写真である。

プラタがUWAベルトを持った記事。

プラタはカネックにエル・トレオで2度挑戦しているが、このタイトルを獲ったことはない。なのに、なぜ…。これは1989年12月25日発行の『エル・アルコン』誌920号に掲載されたページ。実はこれ、親友のビッグバン・ベイダーからプラタが借りて撮影したもの。ベイダーは88年11月にカネックを破って同王座を奪取。90年12月に奪回されるまで、2年間もUWA世界王者だった。その間、4度来墨して皇帝旋風を巻き起こしている。この写真はその間に撮られたおふざけカット。一瞬、あれっ!?と思った読者も読めばわかるネタバレ企画だった。28日発売のGスピリッツVol.65の“アリーバ・メヒコ”『ロス・ブラソス』(中編)では、83年~90年までの金銀三兄弟の全盛期について書いているので、お楽しみに…。

さて、メキシコの首都圏の主要会場には常に多くの雑誌社や新聞社のカメラマンが出入りしている。ところがアメリカでは、60年代後半から80年前半にかけてのロスのオリンピック・オーデトリアムのように、契約カメラマンが常駐して試合やポーズ写真を撮り続けている会場は少ない。その上、ロスのテオ・エレットはクオリティの高い絵を撮るカメラマンだった。故に彼がオーデトリアム内の簡易スタジオで撮影したポーズ写真は全米各地のパンフレットやポスター等で幅広く使用された。

テオ撮影のポーズ写真は全米へ。

私は子供の頃から銀座にあるイエナという洋書専門店に2週間に1回のペースで通い、月刊の『レスリングレビュー』、『ザ・レスラー』、『インサイドレスリング』や四季報だった『レスリングワールド』などの米国誌をコツコツ買っていた。そんな中でテオの写真は群を抜いて上手かった。彼はマイク・ラベールの事務所(NWAハリウッド・レスリング)がクローズした後、ビンス・マクマホン・ジュニアにその才能を買われて初の団体専門誌『WWFマガジン』のメインカメラマンになっている。それまでモロクロフィルム一筋で撮影してきたテオにとって初めてのオールカラー作品だが、私は同誌を見て「何でこれほど美しい試合写真が撮れるのか」と驚嘆した。

 我々があの当時、試合写真をカラーで撮る時、2種類のポジフィルムを使い分けていた。ノーマルフィルムは一般的に明るい屋外ではノーストロボ、屋内ではストロボを必要とするが、もう一つのタングステンのフィルムはテレビマッチ用の強いライトの下ならばノーストロボでも撮れて連写も出来た。リングサイドだけでなく2階からの撮影はタングステンを使った。しかし、WWFでのテオの写真はストロボを正面からドンと当てたものでもなく、タングステン使用時のような陰影もない。それでいて選手の身体全体に綺麗に光が回っているのだ。それはリング上など何箇所かに設置したストロボとカメラが連動しているからこそ出来る業だった。シャッターを押すと、それらのストロボが同時に発光して選手の身体全体に光を回った。故にスタジオ撮影のようにリング上の選手の身体が浮き立ち、影が出来ない美しい写真が撮れるのである。

1965年5月25日、モハメド・アリvsソニー・リストンのKOシーンの有名な写真もこの手法で撮られている。あれを撮ったのは米国の著名なスポーツ写真家のニール・ライファー(私は彼の写真集を大事に保管している)。ライファーはアリvsリストンの試合前にリングの天井にテレビカメラ用のライトを吊るす際、そこに自分のストロボを設置したのだ。プロレスの試合写真に限らずだが、プロのカメラマンたちの中で「裏を食う」という表現がある。プロレスならば技を決めた時など被写体の裏側=背中側でカメラを構えていた時に使う言葉だ。ライファーは手記で「あの瞬間、アリが私のサイドを向いて、倒れたリストンの前に立って吠えたのは幸運だった。見るとリングの逆サイドにいた他のカメラマンたちが(裏を食って)“しまった”と茫然した表情をしていたよ」と。あの時、大勢いた報道陣の中でカラーフィルムを使っていたのはライファーと他に1名だけ。だが、ライファーのショットは天井ストロボの効果でアリの身体には見事に光が回って大の字のリストンを上から照らしていた。だからこそあの写真が「スポーツ史上最高の一枚」と言われるのだ(実は1枚ではなく連写しているけど…)。ライファーの手法をテオは学習した。彼はマクマホン・ジュニアの新生WWFのリングをスタジオ化したのである。次号の第1特集はそんな時代のWWFである。

これが次号(Vol.65)の表紙です。

私は昔、買っていた60年代後半~70年代の米国誌には不満があった。試合写真が出ていても紙質も印刷も良くない。その上、試合の日付が出ていないのだ(場合によっては場所も)。これは“報道”の基本ではある“いつ、誰が、何処で”が欠如している本だと思った(わかるのは誰vs誰だけ…)。プロレス雑誌の編集部はニューヨーク周辺にあって、広いアメリカマットをカバーできないのは多少理解できたとしても、速報性をまったく求めてないのはどうかと思った。その上、日時を記載しない試合をのんびり載せ続けるのもどうかと思った。得られる情報は僅かしかない。そこを行くと日本のプロレス報道は圧倒的に時代を先行していた。1団体に1つずつリングしかない島国プロレスだったとはいえ、新聞が地方巡業にまで同行し、原稿と写真を本社に送って翌日には紙面になる。雑誌(月刊→週刊)は主要な試合のグラビアを良質な紙と優れた印刷技術で提供する。それにはビル・アプターやジョージ・ナポリターノといった米国のプロレスジャーナリストたちが「日本のマスコミの貪欲な取材姿勢と発行されるもののクオリティはすごい」と舌を巻いた。そしてガイジン選手たちも自分が掲載された紙面・誌面をお宝のように大事にして持って帰る。

アメリカマットにおいて日本のマスコミに相当する活躍をしたのが、全米の各テリトリーに散らばったファンクラブの会員たちだったという。60~80年代にアメリカの全ての州にペンパルがいた先輩の吉澤幸一さんにお聞きすると「彼らが現地の試合結果や近々のタイトルマッチや選手の出入りなどの情報をいち早く教えて送ってくれました。時に彼らは選手やプロモーターたちへのインタビューまでしています」。その膨大な情報が「海外ニュース」「海外トピック」「海外ジャーナル」などで月刊の本誌ゴングや別冊ゴングの誌面を飾り、日本のアメプロファンを養成した。「それでも使えなくて泣く泣く捨てたネタがいっぱいありましたよ」。インターネットの無い時代、こうした現地のファンたちから集めた最新情報をもとに、今、誰が何処のテリトリーに居て、どんな抗争をしているか、あるいはブレイク中のニューヒーロー等をいち早くキャッチして、必要に応じて通信社や契約カメラマンを現地に飛ばして大事な試合や選手を押えていたのだ。そういう背景で「世界一海外に強いゴング」が生まれたのである。また現地で写真の撮れる通信員たちにとってゴングのグラビアに自分の写真が掲載されることは無類の喜びだったようだ。

ファンだからと言って決して軽視してはいけない…ファンは時として出来うる範囲でマスコミ以上の仕事をする。竹内さんや吉澤さんはそこを良くよくわかっていた。私もそんなファンの一人だった。1976年正月にマスカラスに後楽園でインタビューした時、前日に本人に伝えてくれたのは竹内さんで、当日、現場でケアしてくれたのが吉澤さんだった。私たちのファンクラブのインタビューは今までマスコミが誰も聞かなかった大事な部分に切り込んでいた。たとえ常連ガイジンだろうとも、毎回来日で聞いておかなければならないことがある。特にIWAで丸1年来日に空白があったこの時期には、多忙だった75年の実情や今後のビジョンを聞き出しておく必要があった。それをゴングすら怠っていた。だからあの時の聞き取りは、46年経過した今でも使える自画自賛の一次史料だと思う。その時の様子は吉澤さんが送った写真とレポートで米国誌に掲載されたし、私の主催したファンの集いの様子は、その年ダラスで開催されたWFIA(レスリング・ファンズ・インターナショナル・アソシエーション)でも報告されている。

世界に発信したファンイベント。

同じようなインタビューは高杉正彦会長の『豆タンク』でもあった。星野勘太郎の凱旋帰国時、現地での活躍をしっかり聞き取りしている高杉会長はすごいと思った。同様のことが他のFC(ファンクラブ)誌でもあっただろうし、アメリカ各地のファンの冊子でも一次史料になりうるものがあったという。広いアメリカではファンから発信されるそれらの情報や記録が今も米国プロレス史を根底で紡いでいるといえる。それこそ一つの州が一つの国のようなアメリカでは「オラが街のプロレス」への思い入れは熱かったことであろう。行きつくところテリトリー制を崩壊させ、土着のファンたちのノスタルジックな夢を消し去って行った1984年~のWWF…何かそうさせたのか、次号の第1特集にご期待あれ。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅