ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第581回】馬と私(2)

 今週も私と馬の特別な(普通ではない)関わりについて書きたい。
私の故郷は厩舎に研究馬がいた伝研→医科研の構内という特殊環境だった(港区白金台4-6-1)。今回は「第二の故郷」がメキシコではなく、日本のサラブレッド生産の70%近くを占めていた北海道の「日高」であると言い切れる理由について説明したいと思う。有馬記念史上初の連覇を達成したスピードシンボリに魅せられて競馬にハマったのは中学生の時。それから毎週のようにテレビ観戦し、兄が買ってきた月刊『優駿』や『競馬四季報』をむさぼり読んで日本と世界の競走馬の名前を叩き込んだ。英単語を覚えるのは苦手だったけど、馬の名前はスラスラ入った。今だから白状すると、馬券は大レースの時だけ父親と車で渋谷の場外へ行って、頼んだものを買ってもらっていた(くそ真面目な親父は賭け事を一切やらなかったが…)。当時の馬券は1枚千円で単・複と枠連しか種類がなく、1971年の日本ダービーの⑤-⑤のゾロ目(1着ヒカルイマイ、2着ハーバーローヤル)を1点で当てたのが初的中。配当は57.4倍。その大金を『サマー・ミステリー・シリーズ』他の観戦やプロレス外国誌購入等の資金に充てた。

1973年5月、国民的ヒーローの“怪物”ハイセイコーがダービーで負けた日の落胆は、翌年の巨人V10逸や93年の“ドーハの悲劇”よりも大きかった。その年、日本プロレスが崩壊し、新日本にも全日本にも乗り切れないと思っていた頃の私の救世主はハイセイコーであった。馬券など買わなくても競馬は面白かった。ほぼいつも変わらぬメンバーで行われるプロ野球や大相撲の幕内力士と違って、毎年毎年約1万頭近く生まれて来る中からスターが出現する競馬の世界は新陳代謝が早くて興味深かった。赤エンピツを片耳に挟んでいる馬券オヤジたちにとって馬は「何番と何番」というように数字で呼ばれたりしていたが、競争馬にはちゃんと名前もあれば、しっかりした素性=血統があった。私はその頃からサラブレッドの血統の研究を始めている。300年以上前、アラビアから英国に連れて来られたサラブレッドの三大始祖に始まり、本場の英国の近代競馬や先進国のアイルランド、フランス、アメリカで育まれた膨大な数の名馬とその血統を頭に徹底的に叩き込んだ。

現在、世界で走るサラブレッドたちの三大始祖。

それは馬券での勝ち負けなんか全くどうでもいい、もっとずっと奥が深~いアカデミックな世界だった。中高生の時はまだテレビ観戦だけで競馬場へは行っていない。最初は大学生の兄に連れられて大井競馬場へ行った(こっそり買った馬券は全部ハズレた。中央競馬の競馬場デビューはまだ先のこと)。ちなみに最寄りの目黒駅から来る都バスは白金台を経由して大井競馬場前まで今も走っている。私は馬に直接触れられない競馬場へ行くよりも、北海道の牧場へ行って引退した名馬や世界中から輸入された種馬に会って、生でタッチしてみたいと思うようになった(幼少期に血清用のアラブ馬たちと戯れたように…)。でも勉少年にとって、北海道はとても遠かった…。

私は子供に頃から旅が好きだった(とにかく好きな事が多すぎた)。小学校の頃の夢は車で日本一周の旅をする!ことであった。ゴング創刊号を買う日までは…(その本を買ってからは、そこの編集員になりたいと思った…)。このコラムを『ドクトル・ルチャの19〇〇ぼやき旅』と名称変更したのは単に旅が好きだからだ。以前のように「ぼやき日記」でも「ぼやき録」とかでもいいのに、「旅」としたのは、私の人生がいろんな「旅」によって構成されてきたからである(今でもいろいろ理由を探して長旅をしているが…)。高校生の時にバイクを買ったのは旅をするための手段で、車より先に免許が取れるからだった。旅が出来るのならば、バイクでも、電車でも、車でも手段は何でもよかった。教科書教育というものが嫌で、何でもいいのから現場へ行って学ぶことを好んだ。それでも大学に籍を置いたのは、何かを専攻するためではなく、正直な話、旅をするための長い時間がほしかったからだ(資金はバイトで稼ぐ)。保守的で硬い家系なのに、こんな自由気ままで好き勝手なことばかりに没頭する息子の学費を払い続け、遊ばせてくれた両親には感謝しなくてはなるまい。プロレス、ボクシング、サッカー、競馬…プレイヤー側としてではなく、研究者・あるいは編集者サイドに立って、何でもいいから誰もやらないであろうコアな部分を極めたい…と思った。“いつの日かドクトルになりたい” (それは天の声か?)。今にして思えば、この中・高・大の学生時代の模索、チャレンジ、研究心が無意識のうちの就職活動に繋がっていたのかもしれない。

豹のヘルメットで北海道へ行く。礼文島にて。

1975年夏、大学1年生の私は憧れの北海道をバイクでツーリングする。約1ヵ月間で道内を1周し、最後に日高に立ち寄った。先に述べたように日本一の馬産地で居並ぶ種牡馬たちをしっかり観たいと思ったからだ。引退して種馬になっている孤高の三冠馬シンザン、アイドルとして故郷に凱旋したハイセイコーに会う。さすがに日本中の超人気者になったハイセイコーの居る明和牧場には観光バスまで入っていたが、日高地方全域に約700戸近くあった他の牧場を見学する者などほとんどいなかった。その時代は今と違って、まだ若者の競馬ファンが極少で、競馬場へ行ったとしても遠い北の馬産地にまであまり入り込んでいなかった。

五冠馬シンザンに会う。浦河・谷川牧場にて。

プロレス会場にガイジン強豪レスラーたちを目当てに観戦しに行ったように、私は日本に輸入されてきた凱旋門賞や英・愛・仏・米のダービーなど世界の大レースを制した競走馬→種牡馬を見て回ることにハマった。日本の競馬場で活躍して引退した馬ならば、牧場へ訪ねに行くファンも時々いたものの、外国馬を目当てに馬産地へ行く者など皆無に等しかった。だから牧場の人たちから「何でこの馬の写真を撮りたいの」とか「これ、外国の馬なのにキミは何で知っているの」とか、よく言われた。英国のエプソム競馬場や王室所有のロイヤルアスコット競馬場で走りエリザベス女王から直接に祝福を受けた優勝馬、女王自身やチャーチル首相の所有馬、あるいはパリにある華やかなロンシャン競馬場や米国ケンタッキーダービーで何十万人に大喝采を浴びた優勝馬たち、はたまた歴史的著名馬の血を引く弟や子供たち、彼らは私にとって映画俳優か著名なアーティストと同じだったのである。そう、プロレスならばバディ・ロジャースやブルーノ・サンマルチノ、フリッツ・フォン・エリックに直に会って握手し、サインと記念撮影させてもらうようなもの。そんな外タレの名馬たちにタダで会えて、触れることだってできる…こんな光栄なことは他にないと思った。

日本に輸入されても種馬として失敗した海外の名競走馬はいっぱいいた。日本は「種牡馬の墓場」と世界のホースマンから揶揄された時代だ。でもヒンドスタン、ソロナウェー、ガーサント、チャイナロック、ネヴァービート、パーソロン、テスコボーイ、ノーザンテースト…実はそうした欧米からの輸入馬の種が日本の競馬界を底辺から支えていた時代でもあった。世界の競馬事情に目をやることもなく、競馬場や場外ばかりに通って、取ったとか損したとか馬券に興じている者が絶対数だった。そんな時代、こうして北海道へ行って海外の名馬たちを見学できることの喜び、加えて歴代の日本ダービー馬たちに再会ができて触れ合える感動に、まだほとんどのファンが気づいていない…ほぼ独り占めに近い超極上の趣味だったといえる。

初めて輸入された凱旋門賞馬、セントクレスピン。

毎年のように春夏秋冬、日高へ行く。私が初めて中央競馬の競馬場に行ったのが1977年のハードバージの勝った皐月賞。でも、私はレースのことより「この中山の大外をシンザンが強襲して五冠になったのか」という感慨に浸っていた。私の場合、牧場デビューのほうが競馬場初観戦より2年も早い。そのため私の競馬に対するものの見方は昔も今も馬産地サイドからの視線である。どの血統が今後伸びて、どの血が淘汰されていくか、どうなれば生産界が発展して競馬界に還元できるかなどを念頭に置いてレースを観戦している。馬券を当てることが競馬観戦の主目的ではない。日本の馬産地で、あるいは世界市場で流行している血統をリサーチし、何が日本の競馬の合うのか、世界に通用する馬作りとは何か…そういう大局的なことを考えながら観戦し、時として馬券を買っているのだった(普通ではない…だから馬券は当たらない)。

70、72、77年種牡馬チャンピオンのネヴァービートと。

私がメキシコへ初取材で行ったのが1979年だから、日高のほうが4年も早い。故に「メキシコは第三の故郷」なのである。メキシコマットについての寄稿だって、私は日本からメキシコを見るのではなくて、常にメキシコ側からの目線で原稿を書いているつもりだ。日高で基地にしていたのはハイセイコーの故郷・新冠(にいかっぷ)にあった「新冠判官館ユースホステル」という若者層の旅人向けの格安宿泊施設で、そこにひたすら連泊して、いろんな牧場へ行って種馬や名繁殖牝馬を片っ端から撮って回り、同時に馬を見る目を養った。私はこのユースの常連となり、ヘルパー代行としてたくさんのお客さんたちの前でミーティング(約30分間、スライド撮影機器や地図を駆使して有名馬のいる牧場や乗馬施設など、コース案内をする説明会)をしていたこともある。見知らぬ人前で恥ずかしげもなくプレゼンをした…それが現在の私のやっているトークショーの原点のような気がする。

78年1月、新冠ユースの前で三谷さん、松原さんと。

この新冠のユースホステルのヘルパーをしていた三谷泉さんとホステラー(宿泊者)で血統の達人の松原一男さんと意気投合して、彼らと一緒に壮大な旅を計画した。『日本縦断牧場ツアー』…それは1968製のオンボロのカローラに乗って北海道を振り出しに、東北、関東、九州、四国のサラブレッド生産牧場を転々と訪ね、そこにいる種牡馬たちをすべて見てまわろうという前代未聞の旅行計画だ。小学校の時、夢見ていた日本一周の旅が馬をという目的を加えて実現へ動く…。出発は1978年3月、この年の日高地方は雪が多かった。この旅とそれ以降の馬話は、来週に持ち越しする。これが今まで決して、みなさんに語らなかったありのままの私の姿なので…プロレスファンの方たち、暫し我慢してお付き合い願いたい。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅