ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第580回】馬と私(1)

 2週間前に「北へ旅するので…」と書いて、先週のコラムはお休みさせてもらった。北とは北海道でした。息子と息子の親友と一緒に日高を旅しました。1月に他界した妻は7月で定年退職し、その後、家族一緒に北海道へ行く約束をしていた…。四十九日の納骨の時にお坊さんが「そういう旅行は中止にしないで遺影を持たれて行かれるといいですね。故人も喜ぶと思いますよ」と言われる。ということで、遺影を持って息子と北海道へ旅をしてきたのです。当初は知床へ行く予定だったけど、お目当ての羅臼のホエールウォッチの観光船がウトロの「カズワン沈没事故」の影響で「?」になったので、目的地を馬産地・日高へ変更。日高はかつて親子3人で行ったことのある思い出の地でもあり、妻も「また牧場の放牧地にいる親子の馬たちを見たい」と言っていた…。

新冠町のとある牧場の放牧地の走る1歳馬たち。
息子と乗馬。私はGI勝ち馬コパノリチャード騎乗。

 今日は暫しプロレス話を離れて、私の馬話、私の馬との関りを書こうと思う。ここは私自身のことや私の好き勝手なことを書くコラムなのでお許しあれ。この旅を機に、少しだけ私事にお付き合い願いたい(一度、書き残しておきたい話だったので…)。実は、私のドクトル・ルチャ・マスクに馬や蹄鉄がデザインされているのには深~い訳と長~いストーリーがあるのです。

ドクトルのマスクはなぜ馬のデザインなの?

「清水さんは競馬がお好きですからね」とよく言われる。否定はしないけど、決してそれだけではない。競馬を知る遥か前、私は物心が付いた頃から馬とアミーゴだった。それは都内に生まれ育ちながら、馬に囲まれた特殊な環境で生活していたからである。白金台という今でこそセレブの街として有名になった場所だけど、そこには昔、馬がたくさん居た…。

 私の父親は東京大学医科学研究所付属病院の放射線技師長を数十年務めていた。「医科研」と呼ばれるその研究・医療施設は白金台(旧・芝白金台町1-39)にある。江戸時代には、松平阿波守(徳島藩蜂須賀家)の下屋敷だった所で、東京ドームが6つくらい入る広大な土地の一角にある官舎で私は育った。ここは白金台の町中から隔離された別世界のような自然環境で、そこには多くの研究施設があり、近所に立派な厩舎もあった。医科研の前身は東大伝染病研究所といい、人は「伝研」と呼んでいた。創設者は北里柴三郎。北里は破傷風の抗毒素を発見するなどの功績を持ってドイツから帰国したが、大流行していたコレラを研究し、治療に役立てるための施設が急務だと国に訴える。そして宮沢賢治らの支援を得て明治25年(1892年)に国営の伝染病研究所を開設している。2年後、初代所長の北里はペスト菌を、弟子の志賀潔は赤痢菌を発見し、さらにジフテリア患者に抗血清を注射して効力をあげたため、日本の血清療法はここから始まっている。

その血清は馬から採られた。そのために伝研の広い敷地には昭和初期に40~50の厩舎が建てられた。大正期に関東大震災で被害に遭ったために倒壊しない鉄筋の頑丈な厩舎が必要とされた(私の後の経験からしても、現在に至るまで日本一の造りの厩舎はここだと思う)。軍からの司令もあり、全盛期には1000頭以上の血清用馬が繋養されたのである。しかし、戦後、衛生環境の改善や抗生物質の研究開発により、血清療法は次第に衰退していき、血清用の馬の需要も減っていく。それでも私の生まれた昭和30年代には1棟に20頭は収容できる厩舎が5棟残り、数十頭以上の馬が飼われていた(S40年代には1棟…10頭くらいに減ったが…)。

医科研のシンボル。旧本館の正面玄関。

当時、米国テレビドラマ『ララミー牧場』の中では、広大なワイオミングの牧場に馬たちが幸せそうに走り回っていた。勉少年は「牧場はいいなあ」、「走る馬はかっこいいなあ」と憧れた。伝研の研究馬たちはアングロアラブ種が多かったようだ。大井競馬などから払い下げられた競走馬たちなのであろうか。彼らは二度と走ることはなく、暗い馬房でジッと暮らしていた(その日が来るまで…)。昔、馬場と呼ばれる放牧地もあったが、そこで放された馬を見たのは僅かだった(テニスコートになってしまう)。小学校から帰ると、星さんというただ一人の厩務員さんが馬を厩舎から外に出して雑草を食べさせているのを何回か見た…。外に出ると、馬はもっと大きく見えた。昭和42年(1967年)6月に伝染病研究所は医科学研究所に改名し、70年代前半に馬たちの姿は消えた…。

 厩舎は目と鼻の先、私の家から歩いて30秒くらいの所にあり、幼稚園の頃から、よく厩舎の中に入って大きな馬に触れていた。犬猫より先に触ったのは馬だったように思う。馬は大きかったけど怖くはなかった。この馬たちはやがて血を抜かれて死んでいく…。人のために役立つのだと教えられていたが、子供心に悲しいと思った。馬の鼻づらは柔らかく、目は大きくて澄んでいた。でも、どこか寂しげに映った。馬を繋ぐための鉄リング付きの柱もたくさん立っていた。「馬糞小屋」もあったし、缶蹴りの時、よく隠れた「寝藁を切る」建物もあった。飼い葉(飼料)を厩舎に運ぶためのトロッコの線路が縦横無尽に走っていた。「倉庫」と呼んでいた施設は超巨大な貯蔵庫で、もう使われていなかったが、恐らく昭和初期、ここには飼い葉が満載・備蓄されていたのだろう。確かに1000頭以上の馬が居たのだろうと想像できた。大型トラックの積載計測器のような馬の体重計も野外にあったし、亡くなった馬たちの霊を祀る馬頭観音もあった。ここは美浦トレセン以前の巨大な馬の集中施設だったといえる。

 競馬を初めてテレビで観たのは、1960年代後半だったか…。馬の走る姿に心を打たれた。サラブレッドとはより速く走るため、スタミナを兼備して走るために生まれてきた。イギリス貴族が中心となり300年以上前から、淘汰・改良されて、世界中で血統書が管理されてきた品種である。私を惹きつけたのは69年有馬記念のスピードシンボリとアカネテンリュウの鼻差の死闘。両馬は、後方でずっとレースを進めていたが、四コーナーで猛烈に追い込んで他の12頭をかわし、直線では先頭に立ってのデッドヒート。2500m走って、僅か数センチの差でスピードシンボリが勝った。「人間の競走と違って、馬のレースは最後方からの追い込んで勝てるんだ。こりゃ凄い世界だなあ!」と感銘した。NWA世界王者のドリー・ファンク・ジュニアが初来日して馬場、猪木と戦った2週間後、マスカラスがロスで小鹿さんに敗れてアメリカス・ヘビー級王座から転落して2日後のことである。

このスピードシンボリとアカネテンリュウの死闘は翌年の有馬記念でも再現された。その時も両雄後方からの追い込み策。大死闘の末、クビの差でスピードシンボリがアカネテンリュウを制して史上初の有馬を連覇した(ちなみに3着はダテテンリュウ)。こりゃ、後の鶴龍対決だな。ちなみにこの有馬記念は馬場さんがキニスキーからロスでインターナショナル王座を奪回した2日後のことである。引退して千葉のシンボリ牧場で種牡馬になったスピードシンボリを76年秋に訪ねる。そこで牧場の方が唐突に「乗ってみるかい」と言う。そして憧れのスピードシンボリに跨るという光栄を与る。人生で初めて乗った馬が殿堂入りした名馬スピードシンボリだったというのは大自慢である。彼は後年、三冠馬シンボリルドルフの母の父となる。

千葉で会った憧れのスピードシンボリ。

 以前にも書いたと思うが、70年12月11日、アントニオ猪木はブラジルで毒蛇ジャララカに噛まれて現地で入院した。この時、ハブから採った血清を日本から空輸して猪木さんに投与し、23日に退院している(スピードシンボリ有馬記念連覇の3日後)。馬ではないが、このハブの血清を作ってブラジルへ運ぶように指示をしたのが医科研の“毒蛇博士”沢井芳男助教授(当時)である。私の家から数十秒の所にその研究用のハブが飼われていた(柵に囲われて厳重管理されていたが、私はよくそこに忍び込んで、大きな檻の上からハブたちを覗き込んだものである)。沢井先生は我々が「5号」と呼んでいた厩舎を改修した研究所で働いていた方だ。我が故郷の医科研がアントニオ猪木の命を救ったのだ。これでもし手遅れになったりして、選手生命の危機にでもなれば、UN王座奪取もなければ、はたまた新日本プロレスも設立されなかったであろう(めでたし、めでたし…)。

猪木さんが毒蛇に噛まれたゴングの記事。

「清水さんにとってメキシコは第二の故郷ですね」とよく言われる。それは違う。「メキシコは第三」で、「第二の故郷は日高」である。それは間違いない。その意味は来週、書きたい。私の馬への深い関りは、ここから本格化していく…。

 

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅