ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第586回】旅する武芸者

 先週は亡くなった鶴見五郎さんの「幻の世界王座奪取」は無かったという事を書いたら、結構、反応が良かったので、もう少しそれに関する話を続けたい。1975年5月8日、モレロス州のアレナ・イサベル・デ・クエルナバカでの出来事である。改めて調べると、『エル・アルコン』誌151号(1975年5月25日号)や『K.O.』誌(5月19日号)にもドクトル・ワグナーvsゴロー・タナカのNWA世界ライトヘビー級選手権の記事が載っているが、カメラマンが行ってないので、結果だけで試合写真はない。そこには体重オーバー等で一時的にも「王座移動」があったような記述はなく、普通にワグナーが防衛したことが記されている。

メヒコから鶴見さんが竹内さんに送った手紙。

 ここに当時、鶴見さんからゴングの竹内さんに送られた手紙がある。クエルナバカのタイトルマッチ前に書かれた手紙である。

『しばらくお便り出せませんでしたが、いかがですか。自分は今メキシコを出る準備をしているところです。5月中には出ると思いますが。こちらの様子ですが、昨年より仕事が少なくなっています。他団体の影響かと思われます。先日(4月24日 クエルナワカ)NWA認定世界ライトヘビー級チャンピョンのドクター・ワグナーをノンタイトルですが2-1で破り来々週に挑戦することが決定しました。アレナ・メヒコがクローズしたため、メキシコ市より70キロ離れたクエルナワカでやるのですが、体重が落ちるかどうか心配です。10キロ近く落とさなければなりませんが、それでも3キロぐらいオーバーです。3キロは認定されるとのことで安心しています。体重さえ落ちれば心配ないのですが、次にお便りする時はチャンピオンシップのくわしいことをお知らせします。 竹内宏介様   鶴見五郎』

(原文のまま)

 ここからわかることを整理する。まずこの年の1月末に新団体UWAが旗揚げしていることを念頭に入れよう。仕事が少ないというより、客落ちであろう。アレナ・メヒコの第一節は4月25日大会で終了している。その日のメインはペロ・アグアヨvsリンゴ・メンドーサのカベジェラ戦。セミがアルフォンソ・ダンテスvsエル・アルコンのナショナル・ライトヘビー級選手権。その下がミル・マスカラス&ドクトル・ワグナーvsリッキー・スター&ラウル・レイジェス。この日にゴロー・タナカは出場していない。アレナ・メヒコでワグナーvsゴロー・タナカの抗争は暫く遡ってみても無い。つまりこの抗争はクエルナバカ限定であったことがわかる。恐らく手紙にあった4月24日の前週あたりから始まった抗争であろう。プエブラ、アカプルコ、クエルナバカ、モンテレイなどEMLLの地方主要会場では、数週間にわたって毎週いろんな形で抗争を積み重ねた後に選手権やカベジェラ戦へ漕ぎつけるのが常套である。クエルナバカは木曜開催なので、鶴見さんは毎週木にクエルナバカへ行ってワグナーと対戦していたはずだ。

その頃、ゴロー・タナカがアレナ・メヒコに出たのは4月4日大会だけで、レイジェスと組んでシエン・カラス&マーティー・ジョーンズと対戦している。この試合は4月6日にグアダラハラで行われるシエン・カラスvsゴロー・タナカのマスカラ・コントラ・カベジェラの煽りである。そこで鶴見さんは敗れて丸坊主にされるわけだが、5月8日までのたった1ヵ月の間に先週載せたベルト姿の写真にあるように、あそこまで髪の毛が伸びるのかどうか…「?」である。あの写真は取材カメラマンがいる首都圏の会場で撮られたものではないかという推理も成り立つ。では、何処で、いつか(?)となると、ワグナーの防衛戦を追うしかない。王者はタイトルマッチ以外でベルトを持参しないからだ。ワグナーの次の防衛戦は6月13日、アレナ・メヒコでのダンテス戦。手紙では5月中にメキシコを出ると書いていたが、この日鶴見さんは試合をしていた。ここでワグナーからベルトを拝借して撮影に及んだのだろうか。もしあの写真がクエルナバカだとしたら、メキシコシティからわざわざ誰かカメラマンを連れて行ったことになる。それだけ小まめなことをしそうな性格でもある…。ただ現物の写真はネガフィルムからのプリントのようで素人の写真という雰囲気も漂う。

このようにベルトを拝借してポーズ写真を撮影するケースは他にも事例がある。ロスのオリンピック・オーデトリアムでクリス・マルコフやティンカー・トッド、マスクド・プリチュアがアメリカス・ヘビー級選手権のベルトを締めた写真を撮影している。彼らは誰もアメリカス王者になっていない。それなのになぜベルトを巻いた写真があるのか。彼らはそれを宣材写真として持ち歩き、他地区へ自分をセールスするための材料としていたのだ。マルコフもトッドもチャンピオンになってないから、日本にその写真が回って来たときにファンも混乱した。

「いつマルコフがチャンピオンになったの?」「なぜトッドがこのベルトを締めているの?」と。マルコフがロスにいたのは、1969年2月~3月と5月~9月(春に第11回ワールドリーグに初来日)。ボボ・ブラジル、シーク、ミル・マスカラスがチャンピオンであった時期である。トッドがロスにいたのも初来日した69年。4月~7月頃。ドッドはマスカラスとも組んでおり、マルコフとも対戦している。もし一緒に撮影したなら5月~7月あたりか。

クリス・マルコフ。再来日以降はこれが宣材。
ディンカー・トッド。新日来日時はこの宣材。

マルコフも、トッドも、マスカラスに頼んで撮影用にベルトを借りたのか、あるいは控室からこっそり拝借したのか(マスカラスは貸しそうにないなあ…)。ロスにはテオ・エレットというオフィシャルカメラマンが常駐しており、オリンピック・オーデトリアム内に彼の簡易スタジオがあった。これらの写真はそこで撮られたものである。だからロスではお見合い写真のような美しい写真が撮れるので、彼らはポーズ撮影の際、見てくれの良さと箔付けのためにベルトを欲したのであろう。プロレスラーはベルトの有る無しで、ポーズ写真の締まりの良さが変わるのは不思議だ。それだけではない。日本プロレス史においても傑作ベルトといわれるインターナショナル・タッグのベルトとアメリカスは兄弟ベルト(松本徽章作)だから、BI砲だけでなく誰が巻いてもカッコよく見える。そんな魔力を持ったベルトである。

マスクド・プリチュア(クライド・スティーブンス)はロスの常連。

アメリカスだけではない。あのUNヘビー級のベルト(吉永プリンス作)も歴代王者に名前のないアール・メイナードが巻いた写真が存在する。時期的に言うならシスコからロス入りした70年11月あたりだろう。お人好しのメンドーサあたりが撮影用にチョイ貸したのかもしれない。基本、そのテリトリーで写真を使わなければ、他地区でならOKという感覚があったのであろう。彼らはそのお見合い写真をカバンに潜ませて仲介者に手渡したり先方様に送ったりして、次のテリトリーへと転戦するのである。味わいのある古き良き時代ではないか。

UNベルトを締めたアール・メイナード。

鶴見さんも日本のマスコミに対して「自分はこんな感じでベルトを獲ったんですけど…」って、海外で頑張っている自分の姿を伝えたかったんだろうと思う。ただ、それだけでなく、この写真をセールス用(宣材)としてヨーロッパへ送ったのかもしれない。結局、6月13日のアレナ・メヒコを最後に鶴見さんはメキシコを出てスペイン経由で西ドイツへ戻っている。プロレスラーという商売は単に強くなろうとするだけでは駄目で、自分に箔を付けて新天地へ向けてアピールすることに一生懸命になる…そういう自己セールスする事も大事な商売の一つなのである。

「一生懸命」とは、一所=先祖伝来の所領・土地を武士たちが命がけで守ることが語源といわれる。土地が米を生み、米=生きる糧で金銀より価値があった。だから古来、日本人は土地にしがみついて頑張り続けるのだ。団体(会社)にしがみついて汗水を流して来た日本のプロレスの在り方もそれに似ている。鶴見さんのように50~80年代、欧米マットを旅した多くのプロレスラーたちは浪人(牢人)だったのだろう。仕官する大名家を探して国から国、テリトリーからテリトリーへと流転する武士たちだ。旅する一匹狼の武芸者たち…そこにプロレスラーという職業の原点があるような気がする。彼らが手にする宣材写真こそ、召し抱えてくれる殿様(プロモーター)に提出する履歴書のようなもの。たとえハッタリでも、それが彼らにとっての見栄であり、自己アピールの手段だった。プロレスの形が変わり、今では鶴見さんのように自力で世界を流浪する牢人(プロレスラー)がいなくなってしまった。寂しい限りである…。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅