旧・ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第538回】さいはての旅路

 最初にお断りしなくてはならないことがある。一昨日、急に言い渡されたこと。この辰巳出版のモバイルサイトが会社の事情によって閉鎖される、と…。それにより、今回でこの水曜日のコラムはフィニッシュとなってしまう。538回も習慣のようにほぼ毎週書き続けてきたので、残念でならない。

 今週、何を書こうかと思っていた中に、私のYouTubeに関する続報がある。メキシコのアミーゴたちにSNSでチャンネル登録をお願いした。イホ・デル・サント、ドス・カラス、ブラックマン、ネグロ・ナバーロ、エル・アルコン、エル・サタニコ、ソラール、ビジャノ4号、5号、リンゴ・メンドーサ、TNT(アナコンダ)、ブラック・テリー、ネグロ・カサス、ショッカー、リッキー・マルビン、ロッキー・サンタナ、エル・オリエンタル、パンディータらに伝えた。ちゃんと登録してくれたかは不明だけど、コロナ禍において久々に彼らと挨拶を交わすことができた。この10年ばかりでたくさんのアミーゴたちが天国へ召され、残った者が少なくなってきたことを実感する。

■JCTVプロレスチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UCModjyc-PXwiSgXNUR_I2TQ

 今週はオリンピックについて何か書こうと思っていたけど、8月になる来週に予定していたネタを繰り上げて使うことにする。それは今の心境に近いものだから、ベストタイミングかもしれない…。きたる8月9日が、あの「羅臼」での国際プロレス最後の日から40年にあたる。そのネタである。

 実は今年の5月に羅臼へ行ってきた。羅臼へ行くのは4度目。1976年、84年、87年、そして今年。34年ぶりの羅臼は随分、変わっていた。道の駅や港にホエールウォッチングのクルーズ船などが新しくあったけど、町の中はというと、閉店している店が多くて夕方に食事するのも大変だった。

 まず、羅臼小学校のグラウンドへ行ってみた。学校の校舎は新しくなっていたが、グラウンドは昔のまま。以前は学校側からグラウンドに入れたが、今は裏の保育園サイドからしか入れない。81年当時の写真と照らし合わせて、リングの設置場所を再確認した。「このあたりか…」。思わず唸る。グラウンドはこのままずっと残りそうな気がした。海の向こうには国後島が横たわっているが、羅臼岳は雲の中で見えなかった。

※羅臼小学校のグラウンド。ちょうど真後ろがリングの設置場所。

 実はこの羅臼でプロレスが行われたのは81年夏が最初ではない。国際が72年11月3日、『ビッグ・ウインター・シリーズ』第4戦でここを使用している。プロレス界初の羅臼大会だ。それは2日前が札幌、翌日が滝川という強硬スケジュール。メインはストロング小林&マイティ井上&寺西勇vsレッド・バスチェン&バディ・オースチン&マリオ・ミラノ(あのオースチンやバスチェンが羅臼に来ていたんだね)。セミが草津vsブル・バリンスキー(金網じゃないと思う)。その下が田中忠治vsホセ・アローヨ、大剛鉄之助vsデニス・スタンプ、本郷篤vsダイドーネ・ムッソリーニ…他。72年と81年、2度の羅臼小グラウンドで試合をしたのは井上、寺西、ミスター珍、米村勉の4名。それにしても11月の羅臼の夜(午後6時半開始)はすごく寒かっただろう。羅臼岳は10月頭に初冠雪するからね。主催者発表の観衆は4000人(81年は1100人)。

 あの日、国際プロレス御一行様が宿泊した「高島屋旅館」に泊まってみようと、電話を入れた。すると「すみません。もうやっていないんですよ。今年の2月に閉館しました」と寂しそうな声。とりあえず現場へ行ってみる。「道の駅 知床・らうす」の裏という好立地にあるに…旅館の名は消され、入口には「2月末に…」という貼り紙が貼られていた。話だけでも聞こうと戸を叩いたが、誰もいなかった。ここで国際の選手たちがどんな気持ちで最後の夜を過ごしたのかと思うと、胸が痛くなった。

 この旅の後半に私は第二の故郷日高(第三がメヒコ)へ行って気づいた。50年以上前の建物(牧場の施設・厩舎)が取り壊しされずに今も残っていること。再利用されているケースもあるし、廃屋になっていることもあるが、開発が入らない限り、建物は放置されたままである。この高島屋旅館の建物もしばらくは残りそうな気がする。だから、みなさんも羅臼へ旅してほしい。

※高島屋旅館は今年2月に閉鎖された。かなりショックだった。

 町中でやっと見つけたお寿司屋さん(いさみ寿司)へ入ってウニ丼を食べる。そこの大将に話を聞くと、81年以降に旭川から羅臼へ来た方なので、国際の最後の興行は観ていないという。でも、大日本プロレスが10年くらい前にここでプロレスをやった時には観戦しに行ったそうだ。その時は小学校グラウンドでない。「この先の公民館の所にある体育館です。グレート小鹿さんがウチに2日間食べに来てくれましたよ。いい人でしたね」。羅臼にプロレスが来たのは国際の2回と、この大日本のみである。

「風が寒かったでしょう。明日は雪になりますよ。知床峠を越えるのは無理です。明日は網走とかオホーツク沿岸は雪ですよ」。いさみ寿司の大将の言う通り、5月半ばだというのに翌朝吹雪になった。雪が小降りになったのを見計らって、羅臼町市民体育館へ行ってみたら改修工事中だった。81年以降に出来た体育館も、修理しないと使えなくなるくらい歳月が流れたということである。工期は6月21日までと書いてあったので、もう完成していることだろう。

 そして再度、小学校グラウンドへ行ってみる。それにしても11月にさいはて知床で、国際はよく野外興行をやったなあと思った。ちなみに72年のこのシリーズは全22戦、野外で試合をしたのは、この羅臼だけ。改めて記録を調べてみる。するとあの国際といえども11月から3月初旬の野外試合はない。74年4月2日、岩手県大野町小学校グラウンドで季節外れの雪が降って、寒くてTシャツを着て試合に出ようとした草津を馬場が叱ったという逸話が残るけど…。そういうことを考えると11月の羅臼の野外大会は、破天荒な国際の歴史においても、異例中の異例の興行だったといえる。

※81年当時、タダ見客が鈴なりになった斜面からの全景。奥の建物が町民体育館。

 40年前(81年)の8月8日夜、根室からゴング編集部の私宛に“長距離電話”が入った。写真部の岡本哲志カメラマンからだった。IWA世界タッグと『オラが町にプロレスがやってきた』という別冊ゴングの企画で「日本最東端のプロレス」根室市青少年センターでの取材を岡本さんに頼んでいたのだ。

「清水クン、明日の羅臼でいよいよ終わりらしいよ。どうする?」
「えっ、ほんとうですか。それならば羅臼へ行ってください。オラが町…の取材は羅臼に変更しましょう」

 私は“あれを撮ってください。あれも…”と細かく岡本さんに指示を出している。それは76年の旅で羅臼の地形、産物、町中を熟知していたから出来た指示だった。

 岡本さんは翌日、選手の移動バスに一緒に乗って根室から羅臼入りしている(GスピリッツVol.52の室蘭、根室、羅臼の写真は、みんな岡本さんが撮影したもの)。岡本さんが帰京し、現像されたフィルムで羅臼のグラビアを組み、原稿を書くのは私の仕事だった。「これが最後の国際プロレス」とか「14年の戦いの終止符」とか、“終わっている”とわかっていても、そう書かなかったのは、国際プロレスへの忖度、いや、愛情・心遣いであった。

 今回、羅臼に立ち寄った理由はこのコラムを書くためだけの取材だった。『ドクトル・ルチャの19〇〇ぼやき旅』というタイトルでやってきたこのコラムの最後(?)の旅に、羅臼はふさわしい場所だったように思う。目をつぶると、あのグラウンドに白いリングが浮かび上がる…。

 このサイトから、その名も

 DrLucha.com

 ここへ引っ越します。でも、夏休みと準備期間をください。9月1日から新境地でオープンさせるので。その時に今までと同じようなコラムを書くのか、何をするのかは、私のモチベーション次第。何か新しいことが出来そうな気配もする。励ましの言葉をいただければ、また木に登るかもしれないので…。吹雪の羅臼に散った“一人国際はぐれ軍団”は今秋にどう復活するか!?お楽しみに…。

 それと辰巳出版のモバイルは閉鎖しても、Gスピリッツはちゃんと出版されますからご心配なく。Vol.61は9月末発売予定。すでに執筆を始めていますので…。次の特集もすごいよ!

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