旧・ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第535回】夢の虎のまた夢

先週は「栗栖正伸が1978年にもしEMLLへ行っていたら、佐山タイガーは存在しなかったかもしれない」という「タラレバ炒め」を書いた。それにしても「レバニラ炒め」なのか、「ニラレバ炒め」なのか…。『王将』は「ニラレバ」で、『大阪王将』は「レバニラ」…どっちが正解なんだ。

 中国から来た料理として正しいのは「ニラレバ」らしい。私は『王将』ファンなので、軽く胸をなでおろす。まあ、美味しければ、どっちの呼び方でもいいけどね。ということで今週も美味しい「タラレバ炒め」を食べよう。Gスピリッツで佐山サトル特集をやった後なので、タイガーマスクについての「タラレバ」の話を書くことにする。

 83年8月4日の蔵前国技館での寺西勇戦を最後に、タイガーマスクは引退して新日本プロレスから去った。当時、月刊ゴングで取材していた私も、まさかあれで最後になろうとは…晴天の霹靂であった。引退が発表された12日、いや13日の夕方だったか、誰もいない編集部の電話が鳴った。

 局は忘れたが、ラジオ番組の生放送で「タイガーマスクが引退したということですが、ゴングさんでは追跡取材をしているのですか?」という問い。私は「はい、やってますよ」と嘘をついた。タイガーマスク引退は、こういう番組のネタになるほどのニュースだったのだ。その後、行ってどうなるわけではなかったが、佐山さんを探しに夫人の実家をひっそり訪ねる。プライベートに踏み入るのは本意ではない。不在で安堵する自分がいた。この夏、日本マットはタイガーマスクという史上最上級の駒と新間寿という最強最後のブレーンを失った。私はせめてあと2年、少なくとも1年、新日本に踏みとどまってほしいと思った。それは新間さんに関しても同様だった。

 後年、新間さんから、あの後のタイガーマスク計画を聞いたことがある。それは私が描いていたものとほぼ一緒だった。「ティグレを来年(84年)から世界ツアーに出したかったんだよ。ニューヨークを皮切りに世界中のプロモーターが欲する場所を巡回させて、あの素晴らしいファイトを現地の子供たちに見せてあげたいってね」。同感だった。タイガーマスクは新日本の超看板商品だったが、2年数ヵ月でかなりやるべきことをやり尽くした感があった。だから「次はあの衝撃を世界に還元できれば」と思っていたのだ。

82年8月30日にMSGに初登場したタイガーマスク。
※82年8月30日にMSGに初登場したタイガーマスク。

 83年になると、小林邦昭、寺西勇と日本人相手の戦いのシフトしてきた。日本人同士ならいい試合になるのは当然だが、タイガーマスクはどんなガイジンとも良い試合が出来るワールドクラスの選手。だからどんどん世界に出るべきだと思った(もう飛行機嫌いになっていたけど…)。

 82年8月30日、タイガーマスクはMSGに初出場している。その時はダイナマイト・キッドを連れて行って成功を収めた。同年11月から12月にかけてはWWFの米国東部エリアとメキシコを2往復して大活躍する。この時、WWFがタイガーのために用意した相手はエディ・ギルバート、カート・ヘニング、マサ斎藤、ミスター・フジ、バディ・ローズなど、かなりの好メンバーだが、肝心のMSGでWWFジュニアヘビー級の防衛戦の相手をしたのはカルロス・エストラーダ。メキシコではビジャノ3号とペロ・アグアヨというツートップを用意したのに、エストラーダとは情けない。藤波がMSGで防衛戦をした時の相手も二流選手ばかりだった。WWFにはジュニアヘビー級というカテゴリーがないから、適当な選手を当てられ続けたという感じだ。

 私は84年以降、こうすべきだ思っていた。タイガーマスクの世界ツアーには8~10人単位のジュニアヘビー級クループを作り、セットで移動し、セットで売り出し、一つのカテゴリーを成立すべきだと。その中にキッドや邦昭、ブラック・タイガーは当然いるべきだし、メキシコからビジャノやサングレ・チカナ、エル・サタニコ、リスマルク、カト・クン・リーといったルチャドールも呼んで一座として東部を皮切りに全米を、はたまた世界行脚したら、タイガーマスクやキッドだけでなく、ルチャ・リブレへの理解も確立したのではないかと思う。

 もし、90年のユニバーサル(レスリング連盟)に近いようなことがニューヨークで先行して出来ていたら、ちょっとした革命だったはずだ。こうした選手を集めて、WWFにしっかりしたジュニアヘビー級部門が出来ていれば、キッドも後にステロイドで身体を大きくて寿命を縮めることもなかったのでは…。

 新間さんにそんな提案をしたのに、タイガーの引退で夢の構想が流れてしまった。タイガーは83年末にもニューヨークからオファーが来ていたにもかかわらず、それも流れた…。あの年の11月、12月のMSGの定期戦でどんなカードが組まれたのか。まだ先のスートリーがあったのに…。

 新間さんが家族のように親しくしていたビンス・マクマホン・シニアが翌年5月に亡くなった。それ以前からジュニアに代表権は譲っていたとはいえ、ビッグボスの死は大きな損失だった。84年にはビンス・マクマホン・ジュニアが陣頭指揮をとってハルク・ホーガンと二人三脚で全米空爆を開始する。

 ここで「タラレバ」だが、タイガーマスクが現役のままで、このジュニアによる全米空爆作戦に新日本から出向の形で参加していたら最高だっただろうなと思う。私はタイガーにメジャーリーガーになってほしかったのだ。もしホーガンと二枚看板で全米を行脚していたら、タイガーマスクの名と超絶な四次元殺法は一部のマニアだけでなく、全米中の視聴者が驚愕したに違いない(今のオータニサーンみたいに)。少なくとも85年の第1回の『レッスルマニア』までタイガーがWWFにいてくれれば、イチロー級の名メジャーリーガーとして評価されたと思うのである。

※レイ・ミステリオはWWFでクルーザー級からヘビーを制覇。

 ビンス・マクマホン・ジュニアの発想ならば、タイガーマスクという素材に対して、想像を絶するような料理の仕方をしたに違いない。たとえば、2004年のクリス・ベノア、エディ・ゲレロ、そして06年のレイ・ミステリオに、世界ヘビー級の「ビッグゴールド」のベルトや伝統のWWFのヘビー級を彼らに巻かせたような、そんな階級を越えた王座交代劇を演出してくれたかもしれない。

 いや、彼らが2000年代に、ウエイトを超越してヘビー級の世界タイトルに手が届いたのは、20年以上前にタイガーマスクという天才メジャーリーガー級の選手が先発していたから出来た快挙だったのではないか。ベノアともエディとも私は親しかった。ミステリオに至っては親友を通り過ぎた人生の友だ。彼らは私に「タイガーマスクの話を聞かせて…」、「その時、タイガーはどうだったの」と何度も尋ねてきた。彼らにとってもタイガーマスクは伝説の大ヒーローだったのだ。

 日本でもタイガーマスクはヘビー級の壁にぶつかっていた。82年、6人タッグだけど、タイガーはビリー・グラハム、ワフー・マクダニエル、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ダスティ・ローデス、ドン・ムラコ、マスクド・スーパースター、グレッグ・バレンタインらヘビー級のトップ選手たちも対戦している。83年下半期はこうしたヘビー級選手へのウエイトを超越したシングル戦も見てみたかった。飼い殺しにされていたブッチャーなんか、タイガーとの遺恨マッチを組んだら面白い抗争をしてくれただろう(デストロイヤーと戦った時のように…)。またタイガーも違う持ち味を出してくれたと思う。

 もう「無敗伝説」にこだわる必要もなかった。たとえ相手がジュニアヘビーでも、タイガーを負かすような、そんな強いライバル出現のドラマがほしかった。もし、日本で観たいとするなら、次はそんな新局面だ。情感に訴えるような漫画の中のタイガーマスクみたいな人間臭さ、そんな虎戦士の第二章が観たかった…。そんなタラレバも、夢のまた夢…。

※タイガーマスクはブッチャーと6人タッグで対戦している。

 馬場と猪木の競い合いもほぼ終焉の方向へ向かい、天才虎戦士タイガーマスクが去り、希代の仕掛け人新間さんも去ってしまい、マスカラスも来なかった83年の夏…プロレス編集者&記者になって2年目の私は、あの時、両立していた「プロレスファン」を止め、プロレスを仕事としてだけ受け止めるように区切りをつけたのかもしれない。

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