旧・ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第527回】淡路島の昭和プロレス史

 先々月、西日本を旅した。プロレスの仕事ではなかったけど、2箇所だけ、昔懐かしい体育館に立ち寄った。会場から発散される昭和のオーラを感じ取るためだった。最初の会場は淡路島の洲本市スポーツセンター。2年ぶりの3度目の淡路島。残念ながら、ここでプロレスの試合を観たことはない。最初は1994年3月。みちのくプロレスの徳島市体育館から翌日の大阪臨海へ移動する途中に立ち寄った。そして2度目は一昨年、大阪で初代タイガーマスクとのトークイベントの翌日にプライベートで友人たちと渡った。

 明石大橋が完成したのは98年4月。大鳴門橋が開通したほうが早くて85年6月。だから94年には徳島からバスで洲本へ行き、洲本から船で泉佐野あたりに渡ったように記憶する。島の体育館へ行くのは佐渡島の両津市体育館へ行って以来かも。あれは78年9月3日、全日本でマスカラス兄弟vs極道コンビ、馬場&デストロイヤーvsエル・アルコン&キム・ドクを観た時だ。島のプロレスは味があっていいなあと思った。

 大阪湾、播磨灘、紀伊水道に囲まれている橋で結ばれてしまった今は、島という雰囲気があまり感じられない。それでも瀬戸内海では面積は最大を誇り、それはシンガポール島やグアム島とほぼ同じ大きさ。13万人は沖縄本島に次ぐ第2位。特産物は玉ねぎ、レタス、淡路ビーフ、びわ、カーネーション、そうめん…。大阪や神戸など大都市に近いのに自然豊かで、のびのびとしていて、温暖な土地柄だ。

※洲本市内と洲本の港。友ヶ島水道の先には大阪湾が広がる。

 日本プロレスの記録を調べてみると、67年8月12日に洲本の文字が出てくる。『第1次サマー・シリーズ』の第14戦。メインは馬場&猪木vsジェス・オルテガ&アントニオ・プグリシー、キム・イルvsアート・マハリック、吉村道明vsカテリーナ・ドレーク…。この時は体育館がまだ無くて、「洲本市三熊グラウンド」という野球場を使っている。スポーツセンターに隣接する洲本市民球場のことだろうか。

 この洲本大会が『第1次サマー・シリーズ』の第14戦で、第13戦は2日前の東京・田園コロシアム(8月10日)、馬場vsジン・キニスキーのインター戦。そして第15戦が翌13日、あの有名な大阪球場の馬場vsキニスキーの再戦。つまりNWA世界ヘビー級王者は淡路島をパスした、あるいはパスしてもらったのである。最初から2試合のみの契約だったかもしれないけど、さすが!といった感じ。後の世界王者たちはどんな地方の野外試合でも出ていたことを思えば、超MVP待遇といえる。私が淡路在住のファンだったら、「おいおい、キニスキー来ないのか!」と怒ったかもしれない。

 次に洲本で試合をしたのは国際プロレスだった。68年7月16日、淡路産業跡広場(正確な場所は不明)。メインは豊登&田中忠治&小林省三vsスカイハイ・リー&ジ・アウトロー(ゴードン・ネルソン)&イアン・キャンベル、セミが草津vsジェフ・ポーツの6人タッグ。その下がサンダー杉山vsブル・デービス。欠場していた木村が前座のレフェリーをしていたようだ。国際は72年9月15日に再び洲本へやって来る。公式記録には洲本市体育館と書いてあるが、これが洲本市スポーツセンターのことであろう。『ダイナマイトシリーズ』第3戦。メインは草津&大剛&寺西vsバディ・オースチン&ビル・ドロモ&リック・フェララの6人タッグ。セミでは小林がロビンソンと45分時間切れで引き分けている。

※洲本市スポーツセンターは運動公園の総称で野球場、陸上競技場も。

 翌73年5月30日には全日本が洲本市スポーツセンターを使用。それは『ブラック・パワー・シリーズ』第13戦。メインは馬場&大熊vsブッチャー&リッパー・コリンズ。セミはデストロイヤーvsグレート・マレンコ、その下が杉山vsサンダーボルト・カノン、駒vsルーファス・ジョーンズ…。日本プロレスの9選手が契約した一週間後の大会だった(合流は次のシリーズから)。クツワダの豪州遠征で不在なので手薄感は否めない。この日、テキサス州ルボックでは鶴田友美がドリーの持つNWA世界ヘビー級選手権に2度目のアタックをしている。

 新日本は翌74年1月にここ洲本市スポーツセンターへ来た。『新春黄金シリーズ』第8戦。メインは猪木&木戸vsトニー・チャールス&ピート・ロバーツ、セミが坂口vsマイティ・カランバ。その下がマクガイヤー兄弟vs小鉄&永源。他の団体はあれっきりだったが、新日本は78、79年、81年とここを使用している。昭和新日本において兵庫県下で姫路市厚生会館の使用頻度が圧倒的に多い。回数的には大きく離されているものの、2番手はこの洲本市スポーツセンターであった。81年10月27日にはタイガーマスクが初登場して、浜田&藤原と組んでミショネロスと対戦している。

※体育館の内部を見せてもらった。こじんまりした体育館だった。

「洲本ですか、ウチの手打ちでやっていたのかなあ」と当時営業部長だった大塚直樹氏が首を捻る。しばらくして「たぶん、徳島の眉山プロダクションの重田雅通さんが買ってやってくれた興行だと思います」。私はタブレットで昔の記録を見ながら、「そうか、ロートルになったとはいえ、キラー・オースチンが来たのか。あのレッグブリーカーが出たのかなあ」、「初来日のマクガイヤー・ブラザースの登場は沸いただろうな」、「ブッチャーは全日本でも新日本でもここに来たんだ」、「地獄の伝道師も…」などとブツブツ言いながら思いを巡らせる。危ないオジサンに間違われる直前にその場を立ち去り、「島抜け」(島流しにあった罪人が脱走すること)しました。さらば淡路…。そういえば「淡路ビーフ丼」というのを食べたら、たまねぎもレタスも入っていたよ。ウマシ!

 もう一つ立ち寄った体育館に関しては来週書きます。

-旧・ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅
-, ,