旧・ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第528回】プロレス不毛の古都

 先々月、西国を旅した時、朝っぱら体育館を見つけて立ち寄った。それは奈良県の「橿原市立体育館」。橿原に取材に行った記憶を辿る。橿原には確か2度ほど行っているはず。最初は93年6月9日の『トップ・オブ・ザ・スーパージュニア』。昼間に高松塚古墳とか、飛鳥の石舞台を見てから会場入りした記憶がある。ライガーvsエディ・ゲレロ、デーブ・フィンレーvsディーン・マレンコの公式戦があった。この朝、体育館の前に立ったけど、なぜか懐かしさが沸いてこない。「ここじゃない。あれは橿原公苑体育館ってところだ」と気づく。

※奈良盆地の南部にある橿原市を遠望。点在する古墳と大和三山を望む。

 プチ自慢だけど、私は全国47都道府県でプロレス取材をしている。でも、唯一、県庁所在地で取材に行ってないのが奈良。橿原市はあるけど、奈良市ではプロレスを観ていない。奈良市といえば1961年5月7日、「あやめが池遊園地」。ドームが出来るまでの最高動員記録35000人(?)という伝説の興行が有名。

 他に力道山時代には同年11月2日は「橿原神宮テニスコート」、62年5月17日「橿原神宮外苑球技場」、62年10月16日は「橿原神宮野外公会堂」。力道山が亡くなる2ヵ月前の63年10月13日、奈良市法蓮佐保山2丁目にあった「奈良ドリームランド前広場」で興行が打たれた(これらすべてに猪木寛至が出場)。ここはディズニーランドを日本に誘致しようとして61年にオープンにした県最大の遊園地だった(2006年閉園)。力道山死後、64年5月5日は大和高田市駅前広場。凱旋した馬場がザ・マミーと対戦している(古墳が多いこの地にミイラ男出現とは…)。

 橿原神宮のある橿原市は奈良盆地の南にあって奈良市に次ぐ県第2の都市。調べると67年6月20日に「橿原神宮県立体育館」で日本プロレスが試合している。メインは馬場&猪木vsスウェード・ハンセン&ディック・スタインボーン。68年5月30日にも同体育館を使用。馬場&大木vsマリオ・ミラノ&ロッキー・モンテロがメイン。猪木vsカリプス・ハリケーンがセミだった。71年10月24日も同所。『第2回NWAタッグリーグ戦』のヤマ場で、メインで猪木&坂口がグレート・スヌーカ&スニ・ワー・クラウドを破り、コワルスキーとオースチンのキラー・コンビはヤマハを破って決勝進出を決めている。

※キラー・コンビが決勝進出を決めた。橿原神宮県営体育館にて。

 国際プロレスは74年5月28日に奈良に初進出し、この橿原公苑体育館を使うと、2週間後の6月10日に全日本も奈良に初進出し、奈良市法蓮佐保山4丁目にある「奈良市中央体育館」(現在のロートアリーナ奈良)を使った。プロレス不毛の地・奈良で起きたニアミスだ。国際の橿原は浜口vsセーラー・ホワイトがセミで浜口が勝つが、ホワイトが判定を不服として、ロビンソンの出たタッグマッチの後に、金網で再試合をした。全日本の奈良市大会は馬場&デストロイヤー&アントン・ヘーシンクvsゴリラ・モンスーン&スパイロス・アリオン&ジョニー・ロッズの6人タッグがメイン。セミはペドロ・モラレスvs高千穂明のMSG杯争奪戦。鶴田はその下でケビン・サリバンと試合をしている。

 全日本はその年の9月にも橿原公苑体育館を使っている。その後も75年9月、77年5月…と頻繁に橿原を使う。新日本がこの橿原を使い出したのは遅く、77年1月11日が最初。スタン・ハンセンが新日本に初登場したシリーズで、セミでストロング小林を葬っている。メインは猪木&坂口vsタイガー・ジェット・シン&ザ・ブルータス(ムルンバ)。「奈良県下は昭和設備工業の西口光治社長の興行でしたよ」(大塚氏)。

 新日本の奈良には壮絶に歴史がある。旗揚げ年、72年6月24日、『オープニングシリーズ第3弾』の第3戦は前述の「奈良ドリームランド」。63年の時は「前広場」だったが、この時の会場は園内であった。この興行を打ったのが「レストラン香港」の高梨正信氏(レストラン・リキ2代目シェフ)。日本プロレス時代にもいくつか興行を手掛けたが、新日本の旗揚げに際し、旭川に続いて奈良を買ったのだ。

「奈良市中央体育館のこけらおとしを狙っていたんですが、プロの興行には貸せないとなって、仕方なく近くのドリームランドでやることになったんです。でも園内に入るための入場料とプロレスを観るチケットの二重取りになったので苦情もあって、けっこう苦戦しましたよ。そんな中でチケット売りやポスター貼りを手伝ってくれたのが日本プロレス時代からお付き合いのあった北沢(幹之)さんです。ところが“なぜ、チケットをまわさないんだ!”と〇〇組に脅されて、僕は一晩監禁されたんです。僕はチケットをそういうところにまわすとか、一切しないですからね。それで僕を助けてくれたのが西口さんでした。西口さんは当時奈良の市議会議員もやられていたんです」。ティズニーランドの日本版(?)で、そんな怖いことが起きていたのだ。ちなみにその日のカードはメインが猪木&豊登vsエディ・サリバン&ジェシー・ジェームス。セミが柴田vsリップ・タイラー。

 高梨氏は仕切り直しで同年10月20日に奈良市内で興行を打っている。「奈良市体育館」とあるが、それは前述の「奈良市中央体育館」のこと。「今回は西口さんの口添えで体育館は貸してくれました」。この日のセミはカール・ゴッチvsシン・リーガン。ゴッチにとっては「あやめが池」以来、11年ぶりの古都奈良だった。

 74年4月14日にも新日本は奈良市中央体育館で試合をしている。前述の全日本がやった大会の2ヵ月前のことである。「その興行は西口さんにお任せして、お手伝いの人間を東京から送っています。でも、その後、奈良市中央体育館はプロ興行に貸してくれなくなったんですよ。アマだけで、興行ものに貸してくれない所はよくあります」(高梨氏)。それにより、県庁所在地…奈良市内でのプロレスは死滅してしまったのだ。

 新日本が奈良県下の屋根付き会場で試合をするのは、3年の空白期間を経た前述の77年1月の橿原公苑体育館。「僕も多少お手伝いしていますが、それも西口さんの興行です」(高梨氏)。そこから奈良県のプロレスといえば橿原になる。私の県庁所在地全制覇が頓挫した理由はこうした理由があったからである。

※セレクトセール のカタログは必需品。800ページ近くある。

 奈良は昭和の大巡業時代において「プロレスが最も来ない県」ではないかと思う。そんな中で高梨さんや西口氏のような方が奮闘されたということである。高梨さんは最後に面白いことを教えてくれた。「西口さんはすでにお亡くなりになっていますが、あの当時からプロレス以外の興行も手広く手掛けていて、顔が広い方でした。新日本にレオン・スピンクスを(86年10月8日)呼ぶきっかけを作ったのは西口さんなんですよ」。そういえば奈良はIBF日本の設立の地。猪木vsスピンクスの直後に新日本は、IBF日本と業務提携してボクシングの試合を新日本の橿原大会(10月27日)のリングでやったね(翌年3月26日の大阪城ホールでも…)。

 一昨年3月14日、体育館ではないが、「奈良100年会館大ホール」というJR奈良駅前の多目的ホールで新日本が試合をしている。2004年2月に同所でやって以来の興行だった。その時、「新日本にとって15年ぶりの奈良県内での興行」と、そのロングスパン記録が話題になった(佐賀県のほうがロングだよ…)。それよりも1974年~2004年まで30年間、奈良市内でプロレスが行われなかったという記録のほうが、私はスゲーッと思った。

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