旧・ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第529回】ダービー不出走の思い出

今週はダービーウィーク。つまり日曜日に日本ダービー(東京優駿)がある週のことで、競馬ファン、ホースマンたちにとって、ウキウキ、ワクワクで落ち着かない一週間だ。私も「プロレス頭」にはなれない。ダービーは1年365日で一番スペシャルな日。私にとっても1年の総決算、大晦日みたいなもので、ダービーの終わった来週から新しい年が始まると思っている。それが私の、世界中のホースマンたちの暦である。

 POG(ペーパーオーナーゲーム)という架空の馬主になって、1年間の稼いだ賞金の差で勝つ負けを決めるゲームが近年大流行している。以前、私は一口馬主で20頭以上馬を持っていたが、この10年くらいは金がかからなくて、優秀な馬が所有できるこのPOGにハマっている。その最終決戦の舞台もダービーなのだ。私のペーパー所有馬は今年のダービーに2頭出走する。滑り込みで出走権を獲得したシャフリヤールとレッドジェネシスである。コロナ禍で今年も府中に応援に行けないけど、2頭には頑張ってほしい。

 私は1977年のラッキールーラが勝ったダービーから東京競馬場で生観戦している。どんなにゴングの仕事が忙しくても、都内にいれば必ず府中に行ってダービー観戦(ゴール板前で)をしてきた。ただし、この44年間でダービーに行けなかったことが3回だけある。コロナ禍で無観客になった去年(コントレイル優勝)。そして、フサイチコンコルドの勝った1996年(6月2日)のダービー。なぜならば私はその日、日本いなかったからだ。

※1996年はロスの「平和の祭典」からメヒコへ。

 その時、私はロサンゼルスでのアントニオ猪木の『平和の祭典』(スポーツアリーナ)からメキシコへツアーをしていた。ロスの翌日、6月2日(現地時間)のティファナで『トリプレマニア4』をやるという情報を仕入れていた。それに行きたくて、少し早い夏休みを取った。ロスはお手伝いということで原稿を書いて日本へ送り、翌日は陸路でティファナへ行き、せっかくだからレオン経由でメヒコ(メキシコシティ)まで行こうと計画したのである。

 すると日本を出発する前、ロスで『平和の祭典』を取材へ行くというカメラマン、テレビクルー、レポーターたち6人ばかりの仕事仲間に「清水さんがメキシコへ行くのなら一緒に行きたい。連れて行ってください。一度メキシコへ行きたいんで」と頼まれる。私は98年にメキシコへ10数名のファンを連れて行くルチャ観戦ツアーをしているが、その時は予行演習のつもりで彼らの申し出を引き受けた。ロスからレオン、レオンからメヒコと大勢で移動するのを全てサポートするは大変だったけど、それもまたいい経験になった。

 その頃はネットがないので、現地でダービーの結果がわからない。ロスで入って来たニュースは「サッカーの2002年日韓ワールドカップ開催決定」だった。帰国してからダービーは僅か3戦のキャリアでフサイチコンコルドが優勝したのを知る。この馬、現役時代に見ることが出来なかったが、引退して種牡馬になってから天龍さんと日高へ行った時にブリーターズスタリオンステーションで会っている。ちなみに私が牧場で見たダービー馬ということならば、57年優勝のヒカルメイジが一番古い。これ、私的にかなりの自慢話で、“私は世界王者のホイッパー・ビリー・ワトソンに会った!”に近い乗りか。競馬関係者に話すとヒカルメイジに!とみんなに仰天される。

※96年のダービー馬フサイチコンコルドには牧場で。

 またフサイチコンコルドに騎乗してダービーを初勝利した藤田伸二騎手にも後年会っている。関西の何処かの新日本プロレスの会場(尼崎か?)に藤田騎手が観戦に来ていて、営業の上井文彦氏が私に紹介してくれた。「ええっ、ゴングの編集長さんだったんですか。昔からずっとゴングを買っていましたよ。感激だなあ」と藤田騎手。競馬サークルの中では大のプロレス通みたいだ。私だってダービージョッキーに会えて感激だ。さすがに「あのダービー観ましたよ」とは言えず、「シルクジャステスの有馬記念優勝の時は中山で観戦していましたよ。私も一応シルクの会員なんです」と言うと、「えーっ、そうですか」と喜んでいた。

 ダービージョッキーに会ったのは、それが初めてではない。美浦トレセンの知り合いの調教助手さんが大のプロレスファンで、よく美浦にも遊びに行った。その後に札幌出張の時に試合後にすすきので彼らと一緒に飲む。それで翌朝、札幌競馬場での調教に付き合わされた。その時、ジョッキー控室で紹介されたのが根本広康騎手。すると「おいおい、ゴングの編集長さんが来てくれているよ」とその場にいたジョッキー仲間を次々に紹介してくれた。前日の中島体育センターに来た騎手もいたようだ。ゴングという名は水戸黄門の印籠みたいである(その名を高めた竹内さんには本当に感謝である。でも私は印籠を滅多に出さない)。

 根本騎手は87年のメリーナイス(映画「優駿」の主役馬)でダービーを勝利した人で、ギャロップダイナであの皇帝シンボリルドルフを破って天皇賞を制したこともあるバイプレーヤーだ。私と同じ歳で、とても明るくひょうきんな人だった。現在は美浦の調教師で、藤田菜七子騎手の師匠である。

 3度あるうちのあともう1回、ダービー観戦を逃したのは今からちょうど40年前、81年5月31日。馬ではなく牛…その日、私は競馬場ではなく闘牛場にいた。別冊ゴングの連載「オラが町にプロレスがやって来た」の取材で四国・愛媛県の宇和島市営闘牛場に来ていたのだ。前日の道後温泉に泊まり、朝早くに宇和島に入り、町中を駆けずり回って取材をする。そして15時にはホテルにチェックインしてダービーをテレビ観戦(NHKで)。勝ったのは二冠となったカツトップエース。「なあんだあ、サンエイソロンじゃなかったのか、今年のダービーはレベルが低い。出走メンバーも低レベルだったよ」。頼んでおいた馬券もハズレて、ぶつぶつ言いながら、会場へ向かった。

 闘牛場でのプロレスはエル・トレオ、モヌメンタル・モンテレイ、エル・コルティホに続く4場目。もちろん和風のプラサ・デ・トロスは初めてである。この企画の取材で地方会場へ行くと選手たちに「なんでこんな所に来たの?」、「あれっ、今日何かあったっけ?」、「よく、こんな田舎まで来たねえ」と言われる。そんなこんなで、他愛のない話をしながら選手たちと仲良くなって行くのである。日本の闘牛場初体験はクロネコも同じだった。「えっ、日本の闘牛は牛と牛が戦うの?」と驚く。日本に留学して来て1ヵ月半くらいか…遠いメキシコを思い出したのか、ゴリー・スペシャルで仲野信市をギブアップさせている。

※81年は宇和島闘牛場。最高に雰囲気のある会場だった。

 その日は『第4回MSGシリーズ』第22戦。メインは猪木&ボブ・バックランド&長州力vsスタン・ハンセン&ハルク・ホーガン&ボビー・ダンカンの6人タッグ。セミが藤波辰巳vsサージャント・スローターの公式戦。その下がダスティ・ローデスvs木戸修、タイガー・ジェット・シンvsクリス・アダムス、坂口征二vsマイク・マスターズ。木村健吾&藤原喜明vs星野勘太郎&前田日明、他3試合。タイガーマスクの佐山はメキシコからイギリスへ転戦して不在だったが、今思えば、何と贅沢なメンバーであろうか。ちなみに3日後の名古屋ではバックランドvsホーガンのWWF戦が控えていた。

 ダービーデーが近づくと、いつもこの宇和島を思い出すのは、最初に連続観戦記録が止まった日だから。でも、あの日、宇和島闘牛場で観た豪華メンバーは正直、あの年のダービー出走メンバーよりも粒ぞろいだった。そして今年で4度目のダービー欠席。都内に居ながら府中へ行けない日が来るなんて思ってもみなかった。それも2年連続で…。その鬱憤をシャフリヤールに晴らしてもらおう。ダービー終了後にはPOGのドラフト会議がある。来年のダービー馬を選び出すため有力2歳馬を争奪する会議である。そのための資料作りもあるし、やっぱ、今週は「プロレス頭」にはなれないなあ。無理。これ以上、許してチョンマゲ。

-旧・ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅
-,