旧・ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第534回】旅立つ若者たち

 Gスピリッツが発売されて1週間くらいすると、私は頭の中から特集や自分の書いたことを一旦消去して、次のことを始め出す。リセット、切り替えである。ただ今回の『佐山サトル』の特集は、自分の中でも珍しくリセットが遅れて尾を引いている。当時のことで、気になって改めて調べ直してみたいことがポツポツ出てきたからだ。次にそれを改めて書くことがいつあるかわからないので、この機会に書き残しておこうと思う。そこには私の好物の「タラレバ炒め」が入るが…。

 その一つが70年代新日本プロレス若手選手の海外武者修行だ。佐山聡は78年6月1日にメキシコEMLLへ旅立っている。新日本の海外修行のトップバッターは、鳴り物入りで入団した吉田光雄(後の長州力)の74年10月の西ドイツ遠征。暮れにはゴッチ宅のあるフロリダに移動したが、反りが合わずに飛び出してカナダを転戦する。75年6月5日には木戸修と藤波辰巳が西ドイツへ出発し、同月10日にはリトル浜田がメキシコUWAへ旅立ち、その約1ヵ月後に橋本小助が浜田の後を追ってメヒコに出発した。

※ハシ・マサタカは日本で全敗ながら「世界ライト級王者」として迎えられた。

 74年9月にデビューした橋本が1年もせずに海外へ行けたのは未だに謎だ。橋本はバトル出場とマクガイヤー兄弟のハンデキャップ試合を除いて、シングルマッチだけをざっくり数えると、魁に8敗、藤波に1敗、栗栖に4敗、荒川に4敗、浜田に6敗、大城に1敗…0勝24敗(たぶん…)。キャリアがたった24戦で、未勝利なのに海外武者修行に出してもらえた。そんなレスラーは後にも先にもいない。おそらくUWAから新日本へのリクエストは2名。藤波も木戸も出てしまって、国内が若手不足で前座が組めなくなるのを懸念して、「橋本でもいいから行かせろ」ということになったのではないかと推測する。橋本個人のためではなく、政治的な背景があったといえる。

 ロスマットのマイク・ラベールとのパイプが確立されたとはいえ、当時、ゴッチの息がかかっている修行場所はほとんどなく、西ドイツもトーナメントのある秋に限定されていた。だからUWAが唯一の長期の受け入れ先であった。ゴッチと喧嘩した長州がその後の行先を失って苦労したり、藤波がゴッチに頼んでやっとノースカロライナのコースに潜り込めたことを考えると、確かに快く受け入れてくれる米国のテリトリーは何処にもなかった。現に木戸もフロリダのゴッチの許から試合することなく帰ってきたし、76年秋に西ドイツに行った藤原喜明と小沢正志も、8月31日に出て10月24日には帰ってきている。そこから長期で受け入れてくれる転戦先が米大陸にはUWA以外ないのだ。

 ここからが新ネタ。改めて調べてみると、76年夏にUWAから新日本にオファーが来ている。6月にハシ・マサタカ(橋本小助)が浜田と喧嘩して嫌気がさして帰国してしまったからであろう(実際の喧嘩を見たエル・マテマティコは橋本が浜田に勝ったと証言)。そこでフランシスコ・フローレス代表から橋本の欠員を埋める日本人のリクエストが届いたのだ。その要請に新日本がリストアップしたのがドン荒川と栗栖正伸であった。このどちらかがメキシコへ行く候補に挙げられたのだ。前座で「鹿児島選手権」を争った2人がメキシコ行きを争うことになる(ちなみに鹿児島県人ではマッハ隼人が先にメキシコ入りしている)。

 トリッキーな荒川だったらリンピオか、栗栖はやはりルードか…。ところがどちらのメキシコ行きも実現しなかった。なぜ流れたかはわからない(浜田がどっちも嫌と言ったのかも…)。佐山が初参戦した『第3回カール・ゴッチ杯争奪リーグ戦』は、そんな中で開催されたのである(まあ、どちらが行ったとしても、浜田と揉めたはず)。浜田はこの年の5月に大帝レネ・グアハルドを破ってUWA世界ミドル級王者となる。新日本初の海外成功者だ。

 もう現地では“大英雄”である。6月にアリ戦でアントニオ・イノキの名前が初めてメキシコに知れ渡るが、ハポネスといえばヒロアキ・アマダ=グラン・アマダ(Hは発音しない)のほうが一足先にヒーローになっていたのだ。目の肥えたボクシングファンが多いメキシコでは45年前のアリ戦が「世紀の凡戦」と捉えている。そんな中、浜田は偉大なる師匠を差し置いて、日本人として上に立って称えられていることに優越感を持っていた。

※「1976のグラン浜田」はメキシコでアントニオ猪木を越えた存在だった。

 77年5月にカロライナ地区からメキシコに転戦したのは藤波(リング・フヒナミ)。最初に藤波をルードとして迎えたことを見ると、荒川が行っても、栗栖でもルードがほしかったことになる。ただ、呼んでみたら好漢だった藤波はすぐにリンピオにチェンジしている。藤波は年下でも先輩だから浜田にイジメられることもなかった(直接は…)。77年下半期に再びUWAからの新日本へオファーが来る。藤波が新日本の指令でメキシコを出ることになったから(ロス経由ニューヨークへ)、その欠員を埋める東洋人を求められた。その要請に応えて暮れに日本を出発したのは小沢正志。それもモンゴル人に変身してのテムヒン・エル・モンゴルである。

 78年から本格的にUWAで暴れ出したテムヒン。にもかかわらず、春先にメキシコから新日本へ選手を送ってほしいというオファーが来ている。そこで候補として再浮上したのが栗栖だった。ところが3月に栗栖は左足首を負傷して渡墨は出来なかった。

 問題はここである。このメキシコからのオファーとは、UWAではなく、EMLLからであった。これは今まで再三触れてきたマイク・ラベールを仲介してEMLLのチャボ・ルテロ・カモウ代表が新日本に出したオファーである。何が言いたいかというと、もし、ここで栗栖のEMLL修行が実現していたら、6月1日の佐山のメキシコEMLL行きは無かったのではないかということになる。

 もし、それで佐山のメキシコ行きが無かったら…6月7日の福岡スポーツセンターでの猪木vsモンスターマンの再戦、坂口vsランバージャック・ジョニー・リー、ルスカvsアレンの前に佐山vsXの格闘技戦(他流試合)がラインナップされた可能性が強いし、その後も新日本から出向の世界格闘技協会(WMA)の所属選手としての道を突き進んでいったに違いない。そうなった場合、81年のタイガーマスク候補は別の選手らなったかもしれないし、たとえ佐山が指名されようが神秘性の欠けた虎になったであろう。

※EMLLではなく、79年2月にUWAでブレイクしたマサノブ・クリス。

 また細かいことを言えば、もしその時に栗栖がEMLLへ行っていれば、パク・チューのロス行きも消えていたかもしれない。たとえ木村がロスへ行ったとしても、そこからEMLLへ転戦すると、栗栖が半年以上前からメヒコにいたわけで、パク・チューのNWA世界ライトヘビー級王座奪取はなかっただろう。では栗栖がエル・ファラオンを倒してベルトを獲れたどうか、それはクエスチョンマークだ。それよりもメキシコで栗栖と木村が合流したら、喧嘩したであろうことは十分想像できる(仲悪い!)。佐山絡み以外の組み合わせは、みんな仲が悪かった。

 70年代の新日本の若手たちの「旅立ち」を改めて調べると、面白いことがいろいろ転がっている。佐山聡に関して言えば、「長期実戦海外修行」の経験のない藤原、木戸もそうだが、荒川、栗栖、邦昭という72年旗揚げ年組をも飛び越して、海を渡ったのだから、それはそれで凄いというしかない。そしてその成功の土産が虎戦士変身だったのだ。本人は不本意でも、あれが正解だったのである。今日のキモは「その時、栗栖が怪我しなかったら…」でした。だから、歴史の擦れ違いのような「タラレバ」が考えるのは、やはり楽しい。来週は違う「タラレバ」が書ければいいなと思う。

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