旧・ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第533回】三刀流の若者

 最近、日本人プレイヤーが世界中を驚愕させるような大活躍をしている。マスターズに優勝した松山英樹、日曜日にラスベガスで一方的にKO勝利を収めた“モンスター”井上尚也、そして投手で3勝目、6日間で6本ホームランを打って本塁打キング争いをしている大谷翔平。どれも世界水準を超えた規格外のスーパースターである。

 特に私が一番ハマっているのが「ショーヘイ・サン」だ(馬場正平ではない)。「5ツールプレイヤー」という5拍子揃った野球の名選手を表す用語がある。「ミート力」、「長打力」、「走力」、「守備力」、「送球力」なのだが、それらは野手のみを指す。大谷はそこに「速球力」、「制球力」、「変化球」など名ピッチャーとしての優れたツールが加わる。驚異の8ツールを持つ100年に一人の稀有な逸材である。それが本場アメリカのファンばかりか同業の名プレイヤーやレジェンドOB、目の肥えた関係者や評論家たちをも驚愕させている。

 もう一つ、ツールを挙げるとすれば「人間性」だろう。人柄は所作に表れる。大谷はいつも笑顔で、敵味方関係なく細かい気遣いをする。思いやりのある仕草をプレー内外の随所に見せるのだ。今までのメジャーリーガーでは決してあり得ないさりげない心遣い、日本人ならではの「礼儀の正しさ」を自然に出す。今、そうした大谷の一つ一つの仕草にアメリカ中の人間がと驚きと親しみを感じている。それらは幼少時代から躾、教育、日常生活に繋がっているのだろう。

 人としての大谷の姿を観ていると、重なるのが42年前にメキシコで出会ったサトル・サヤマという青年。マスカラスを追っかけていた私はそれまでジャンボ鶴田や渕、園田、大仁田の若手三羽烏など全日本にしか顔見知りの選手がいなかった。新日本の選手で初めて面と向かって「知り合った!」と言えるのが佐山聡だった。「新日本の人って、みんなこんな感じの礼儀正しいナイスガイなのか」と思ったら、グラン浜田やパク・チューと会ったら、そうではないこともわかった。佐山聡という若者そのものが特別の人柄だったことに気づく。

※笑顔が眩しい20歳のサトル・サヤマと親友とクン・フー(左)。

 私より先にメキシコで佐山に出会った横井清人さん(ベースボールマガジン社通信員)も同じだった。「会ったその日に佐山さんの虜になりましたよ。性格の素直さ、人当たりの良さ、礼儀の正しさ…ずっと年上の僕が“うぁっ、最高の人物”と瞬間的に思うんだからさ。後にも先にもこんな好青年に出会ったことないですよ」。それは私たちに限らず、彼と出会った選手、プロモーター、マスコミ、ファン…全員が共通して抱いたことだろう。

 新日本の後輩たちはメキシコへ行くと、現地で大成功を収めたグラン浜田の“洗礼”を何かしら受ける。UWAの浜田とEMLLの佐山…敵対団体に所属していたから、普通にしていれば擦れ違いで接点は全くない。だからイジメ(?)なしで済むと見られたが、佐山はメキシコに着くなり、先輩に浜田の家を訪ねて挨拶をしている。佐山が入門した時に浜田は既にメキシコへ行っていたので、会ったこともない先輩である。そのファーストコンタクトで浜田は後輩の佐山の人柄良さに魅せられたのだろう。浜田の口から佐山を悪くいう言葉を聞いたことがない。

 これは大谷翔平のように、佐山聡の天性の人柄といえる。佐山は外国にやって来たから、こういう人の接し方をしたのではなく、それよりも前、新日本プロレス若手時代、いや少年時代から、人に愛される性格だったのであろう。「先輩たちに怒られたことがない」と言うのだから、当時からスペシャルパーソナリティーだったのだ。それは身近な先輩たちだけに関わらず、アントニオ猪木でさえも取り込んでしまう。新日本において神のような存在の猪木が、入門2年もしないこの若手が秘めた資質に興味を抱き、さらに人柄の良さにも惹かれて、好んで手元に置くようになる。やはりは最初から「特別」の若者だったのだ。

※先輩たちの誰からも可愛がられていた佐山。それは人柄が成せる業。

 大谷と佐山の違いは、佐山にはあれほど恵まれた体格を持ち合わせていなかったことと、そして期待されて海を渡ったわけではなかったことだろう。「ルチャは簡単でしたよ」と漏らす佐山。日本から行った多くの選手たちがルールや薄い空気、独特の動きに苦戦したのに、佐山はすぐに適応出来た。何でも早く吸収できる才能とキャパが彼にはあったのだ。「実はプロレスも簡単でした」とはさすがに言わなかったが、おそらく日本を立つ前にそう思っていたのでは…。そしてイギリスではキャッチにも対応できた。

 つまりタイガーマスクになる時点で「プロレス」も「ルチャ・リブレ」も「キャッチ」も、自由自在に操れる「三刀流」のプロレスラーだったのだ。おそらく一番、難しかったのが「格闘技」で、簡単ではない未完のそこの部分を極めたくなる気持ちも、今になってわからないではない。

 余談で、今回、こんな会話もした。

「佐山さんはプロレスではなく、別のプロスポーツの世界へ行っても大成功したんじゃないですかね。それだけの運動センスと半端でない熱中度合いがあるわけだから…」(私)
「どうですかね。僕は子供の頃にテレビで沢村忠さんのキックや猪木さんのプロレスばかりを観て育ったですから…」(佐山)

「昔、アーノルド・パーマーとジャック・ニクラウスとゲーリー・プレイヤーの“ビッグ3ゴルフ”って番組があったの知っていますか。もし、それを佐山さんがそれを観て熱中して上京し、ジャンボ尾崎に弟子入りでもしていたら、米ツアーを優勝するようにプレイヤーになっていたかもしれない。そんな気がします」(私)

※この十数年、ゴルフにハマっていた佐山さんから再三、ゴルフに誘われていた。

「“ビッグ3ゴルフ”でしょ。それ、僕も子供の頃、観ていましたよ(苦笑)。でも、その頃はそういう選択肢はなかったなあ。米ツアーの…それは無理でしょ(笑)」(佐山)
「そうかなあ…。でも、そっちに行っていたら、僕らと会えてなかったですよ」(私)

「そうですね(笑)」(佐山)

 本日発売のGスピリッツVol.60、特集『佐山サトル 1975-1978』。本当は北沢さんのインタビューも載せるはずだったが、肺に水が溜まる病気で入院されていたので、残念ながら取材は出来なかった。でも、今週の月曜日にやっと退院されて、現在は自宅療養中だ(メデタシ、メデタシ…)。「2月からだったので長かったし、脇腹に太いチューブを通されてすごく痛かったですよ。でも、入院中にいろんな人から励まされたんで、辛かったけど頑張れました。猪木さんもご自身の身体がああいう状態なのに心配してわざわざお電話をくれましたし、佐山から何回も励ましの電話をもらいましたよ。本当にありがたいことです。佐山の特集ですか。それは楽しみです」。

 取材は叶わなかったけど、今回のGスピリッツは北沢さんの退院祝いになったかもしれない…。佐山さんのインタビューと全記録を熟読してもらえれば、北沢さんが「プロレスラー佐山サトル」のキーパーソンであることがわかるはず…。そういう視点から今回の特集を読み解いてほしい。

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