ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第565回】シンの蛮行

本日はGスピリッツVol.63の発売日です。もう、手に取られましたか…。

今日はその続編のようなお話を…。73年4月6日、栃木県営体育館でのシリーズ第4戦からNETが毎週金曜日にレギュラー放送を開始し、辛かった新日本のノーTV時代は終わる。この日のメインが猪木&柴田vsジャン・ウイルキンス&サイクロン・マヌエル・ソト。1本目は猪木がウイルキンスをコブラツイストでギブアップさせるが、2本目はウイルキンスが柴田を、3本目は柴田がウイルキンスを押さえて勝利した。ここまで決勝は猪木が必ず決めていたのに、それをパートナーに譲ったのは初めてのこと。ナンバー3として柴田を売ろうとしたのか…テレビを意識した「猪木流」の思惑を感じた。

足をひっぱられてソトのピン負け。

さらに12日の仙台でのTV戦では猪木はソトとのシングルで、まさかのフォール負け(セコンドのウイルキンスがリング下から足を引っ張る)。新日本で猪木がゴッチ以外にシングルで敗れたのは初めて。これも20日の蔵前での黄金コンビ復活の相手(ソト&ウイルキンス)を持ち上げるための苦肉の策…。手薄なガイジンを盛り上げるのに苦労した跡が窺える。それにしても、いくら何でもソトに負けるとは…こんな無様なことをしなくていいようにオリジナルの天敵が必要とされた。“新日本のブッチャー”=タイガー・ジェット・シンを担ぎ上げる…狂虎育成計画だった。数少ないテリトリーでベビーとしてやっていたはずのシンを覚醒させる…その彼にブッチャー以上の恐怖を世間に向けて与えるには、「伊勢丹前襲撃事件」もそうだが、マスコミもファンも「無差別に襲わせる」…それをさせたアントニオ猪木が一番恐ろしいと思うのである(お陰で被害甚大)。

73年5月、突然、出現したシン。

私自身、シンをプロレスラーとしてまったく評価していないが、あれを作り上げた新日本=アントニオ猪木は大いに評価したい。何せ、後ろ受け身もしっかり取れないような選手をあそこまで持ち上げて、8年間も新日本のドル箱ガイジンにしたのだから、お見事と言うしかない。その後のハンセンにしても、ホーガンにしても、ベイダーにしても、よくぞあそこまで作り込み、本人たちを乗せ、かつデザインしたと思う。ブランド志向の全日本とは大違いのスカウト能力だと思う。

よく、「シンはいい奴ですよ」なんて耳にすることがあるが、私たちにしてみれば、とんでもない話だ。その選手、その関係者にはいいのかもしれないが、我々マスコミに牙を剥くなんて許せる行為ではない。シンの来ているシリーズ、我々は控室や控室通路などで常に気を張っていた。特に後ろにドアを背負って立たないこと、ドアを開ける時の出会いがしらなどは要注意だった。また通路に袋小路がないかのチェックもした。

私はシンに殴られ、ぶっ飛ばされたた記者を何度も見た。怪我した記者もいた。以前に書いたように、ウォーリー山口君が巻頭グラビアに出たゴングを渡しに行って殴られるのを目前で見た(水戸市民体育館の便所)。全日本時代には後楽園ホールの試合後の馬場さんの控室に突然乱入してきて、ウォーリーが襲われた。シンの世話役をしていたウォーリーは「何で、俺がやられなくちゃならないんだよ」と怒っていた。

控室でウォーリーが襲われた。

ブッチャーやシークはシンみたいな馬鹿なマネはしない。彼らは会場内を徘徊して暴れ回っても、一度、バックヤードに入ると、大人しくなる。マスコミに対しても見て見ぬふりをしてくれる。彼らはジェントルマンで、シンのように誰彼なく襲いかかる猛獣ではなかった。スイッチのオンとオフがある。控室でのブッチャーやシークの姿を見て、これぞプロフェッショナル!と思った。でも、シンは違った。自分に抑えが利かない獣だった。それがキャラクターだと言えば、それまでだが、客のいないところで暴れても記事にはならない。それでいて口癖が「俺を表紙にしろ」。冗談じゃない。シンに追い回されて、プロレス記者は他に絶対ない特殊な職業だと思った。仕事へ行って、現場で殴られるなんて、そんな職業、他にある!?

シンは新日本の斡旋でメキシコへ初遠征した。79年12月19日のパラシオが初戦。この日は藤波vsアンヘル・ブランコのWWWFジュニアヘビー級選手権があって、テレビ朝日の中継スタッフも来ていた。シンはソリタリオと戦ったが、日本でのテレビ放映はない。ここでもシンは日本と同じ狂虎スタイルで戦った。そこに“日本人の目”があるからだ。

翌80年2月のトレオではアンドレ&マスカラスvsシン&コロソ・コロセッティというカードがあった。さらにはアレナ・プラブラでマスカラスvsシンのシングル戦もあった。そこに坂井圭也樹通信員が取材に行く。シンは坂井氏を見て“何で、こんな所に日本人記者がいるんだ!?”という顔をしたという。81年2月にウォーリーがトロントに行った時はニック・ボックウインクルとのAWA世界戦で、地元のシンはベビー。その時もリングサイドで写真を撮るウォーリーを発見して“何で、ジャパニーズが!”という嫌な顔をしたという。舐めちゃいけないよ、ゴングは世界を相手にしていたのだから、何処にでも行くさ。

トロントでのニック戦はベビー。

シンはメキシコでも新日本と同じクレイジースタイルを押し通す。しかし、それが仇となる。アレナ・コリセオ・デ・アカプルコでシンが客席に乱入して、お客に手を出したことで暴動となり、観衆が会場を囲んでシンを控室に隔離するという事件が起こったのだ。「私も長年ここで仕事をしているけど、あんなことは初めてだったよ。“シンを出せ、殺してやる”って客が怒って帰らないんだ。最悪だったよ」と、プロモーターのペペ・バルデスが話をしてくれた。

メキシコでは大好きな表紙にもなったが…。

日本ではシーク、ブッチャー、シンらは客席に乱入して、折りたたみ椅子を蹴散らして徘徊する。客もそれを楽しむように逃げ惑うが、それは日本だから成立する行為。アメリカやメキシコの客は好戦的なので、理不尽なことがあるとエキサイトにして反撃する。ナイフやピストルという武器もある。シンはメキシコ人を舐めてかかったから、こういうことになったのだ。そのためにアメリカでは警官が花道で選手をガードする。メキシコでも昔はアレナ・メヒコではそうしていた。だが、地方会場ではそれが出来ない。この事件があってから、暫くしてUWAはシンの今後の安全が保障できないとして、81年2月を最後にお払い箱にしている。でもブッチャーは頭がいいから、メキシコでそんな危ないことをしなかった。

シンは地元のトロントではベビー。アメリカは、シークのデトロイトで少しやっていたくらいで、いわゆる米国の主要テリトリーに出たことがない。あのスタイルはアメリカでは通用しないのだ。先に触れたように新日本で育てられたハンセン、ホーガン、ベイダーはアメリカ国内で成功を収めた。だがシンは成功しなかった。あれは日本でだけ許されるスタイルだったからで、米国では一選手として大したセールスポイントがなかったということである。ハマったのは猪木戦だけである。それだけで成功したのだから、猪木大先生には感謝しなければならないだろう。

ああ、今日はシン批判を書けて、スッキリした。ではまた来週。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅