ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第542回】ワンス・アポン・ア・タイム・イン・渋谷

 本日はGピリッツ最新号(Vol.61)の発売日です。もうみなさん、手に取られましたか。結構、読むこところがたくさんあるので、秋の夜長、しっかり読み込んでもらえれば幸いです。

 さて、今回は「リキレストラン」の元シェフだった高梨正信さん(現「レストラン香港」)にインタビューしたので、リキパレスに関して随分、勉強させてもらった。タイムスリップできるのなら、真っ先に観戦したい会場である(二番目が駿府会館。アメリカならキール・オーディトリアム。メキシコならば旧アレナ・メヒコ)。

私は日赤病院で生まれたので、正確に言えば、渋谷生まれ。育ちは港区芝白金1-39(旧住所)。一番近い電車の駅が(国鉄)山手線の目黒で、次が日比谷線の広尾、次が品川だった。白金台はかつて“テキサスリーガーズヒット”のようなポツンとした町でした。幼少期に目黒には駅ビルがなかった。だから一番近いデパートは渋谷の東横。屋上は小さな遊園地になっていた。最上階は大きなレストラン。映画を観たり、遊園地で遊んで、お子様ランチを食べて帰るのが私に限らず子供たちにとって極上のコース。映画などで、よく行ったのが東急文化会館(現在のヒカリエ)。その最上階にあった「五島プラネタリウム」にはよく行った。毎月、テーマが違ったので、ほぼ毎月通った。だから今でも、星座に関してはちょっとばかりうるさい。

渋谷には都電以外の緑色の路面電車が走っていた。玉電、東急玉川線だ(現在の田園都市線)。それを見に行くのも渋谷へ行く楽しみの一つ。渋谷~品川にはトロリーバス(屋根上のポールから電気を取って走るバス)も走っていた。頑張れば、家から自転車で渋谷へ行けた。「児童会館」という子供向けの斬新な施設があって、「メフィラス星人が来る」というので行ったことがある(一週が違って観られなかった…)。星座マニア、乗り物マニア、怪獣マニアだった小学生にとって渋谷はワンダーランドだった。

1961年夏、渋谷駅南口のロータリーから見たリキパレス。

ある日、駅の反対側、南口にもプラネタリウムがあるのを発見した。そのビルの屋上にも五島プラネタリウムのような銀色のドームがあったからだ。「次はあっちへ行こうか」、そう思っていたアレ!がリキパレスだったのだ。その時分、私は眺めていただけで、あのブロックに立ち入ったことがない(怪しい禁断のエリア…)。あの頃、もしリキパレスへ行ったら、10年早く竹内さんに出会っていたかもしれない(そんな馬鹿な…)。竹内少年は金曜日になると、浅草から渋谷のリキパレスへ観戦に来るのが恒例行事だったようだ。私にはもう一つのプラネタリウム?がプロレス会場であったという意識がまったくない。

リキパレスの円形の館内。ステージも客席に。

1979年にメキシコシティへ行って、最初に入ったプロレス会場が、アレナ・コリセオ。場内に入ると、「ここ、写真でみたリキパレスの内部に雰囲気が似ている」と即座に思った。帰国して竹内さんに話したら、「ああ、円形だし、迫り出した二階席が似ていたかもね」と同調。竹内さんは71年にここへ来ている。「でもコリセオにはステージがないし、あそこは客席が上に向かって高かった。2階席以上には金網が張ってあったよね。金網の向こうで狂ったように客が叫んでいる、その光景があまりに異様で、リキパレスと比較するとかは浮かばなかったなあ」。

竹内さんが71年夏に撮ったアレナ・コリセオの二階席。

そう、金網の中に人間が居る状態。竹内さんが撮った写真をよく見ると、「ポーラ・ルーダ」の垂れ幕がチラリ。ここはルードばかりを応援するへそ曲がりのクレージー野郎たちの檻みたいなエリア(うるさくて当然…)。彼らはリンピオを応援する何百倍の客たちを敵に回して騒いでいるのだ。櫻井さんや竹内さんがカルチャーショックを受けて当然である。

コリセオは4階席まであって、7000人も収容できる大会場。箱に茶筒を入れたような形状をしていた。リキパレスの上にもう1個半リキパレスを乗せた感じか(特に4階の高低差がすごい)。コリセオが落成したのは1943年4月2日。ちなみに、この16日後に山本五十六大将が戦死している。第二次世界大戦の激しさが増している最中、メキシコにおいては、アレナ・コリセオの落成式はかなり重要な出来事であったようだ。

リキパレスは1961年7月30日落成なので、コリセオの18年後に完成したことになる。たぶん2つの会場に因果関係はないだろう。円筒形に造ったらたまたま似てしまっただけのことか…。1966年11月がリキパレス最後の興行で、赤坂のキャバレー経営者にビルごと売却された。リキパレスがプロレス会場として稼働したのは5年数ヵ月だったことになる。この間、コリセオでも試合したことのあるガイジンは来ただろうか。もし、いれば「おーっ、コリセオみたいだ!」と唸ったなに違いない。

調べてみたけど、なかなかみつからない…。掠っていたのが鉄人ルー・テーズ。1954年5月21日にテーズはコリセオでゴリー・ゲレロを相手に世界ヘビー級タイトルの防衛戦をしている。『第4回ワールドリーグ戦』の前夜祭は4月20日のリキパレスだった。だが、テーズの来日は一週間遅れの27日から。1966年2月の鉄人3度目の来日ではシリーズの前後にリキパレスの試合が6大会あったが、テーズ来日中の『インター選手権シリーズ』ではリキパレスを使用していない。高梨さん曰く、「テーズはレストランに来ましたよ」というので、事務所とパレス内を覗いたかもしれない。

1954年5月、コリセオで戦ったテーズvsゴリー・ゲレロ。

実は前述の『第4回ワールドリーグ戦』の前夜祭の中にこの人は!?という人物がいた。グレート東郷である。東郷は「タロ・シト」の名で1953年10月にメキシコへ行っている。アレナ・メヒコは1956年4月開場なので、この時のメイン会場はテーズ初来墨の時と同じコリセオ。記録は見つからないが、東郷は間違いなくコリセオで試合しているはずだ。東郷が「ワシはメキシコで客にナイフで腹を刺されたんだ」と証言しているが、それって、もしかしたらコリセオかもしれない…調べてみよう。

では、リキパレスの前座で試合をしていた日本人若手選手で、後にメキシコへ行ってコリセオのリングに上がったのは誰だろう。林幸一、駒秀雄、星野建夫、北沢幹之くらいか。彼らが「あれ、ここリキパレスに似てる。何か落ち着くなあ」と思ったかどうかは知らない。でも、アレナを出ても「リキレストラン」も無ければ、蕎麦屋の「たけや」もない。あるのはタコス屋だけ…。1981年に馬場はメキシコに遠征したが、コリセオでは試合をしていない。「リキ・スポーツ・パレス≒アレナ・コリセオ」…北沢さんはどう感じたのか、今度聞いてみよう。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅