ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第543回】リキパレスの幻影(1)

 先週はリキパレスがアレナ・コリセオに似ている、いや、アレナ・コリセオがリキパレスに似ている話を記した。最後に“北沢さんに聞いてみよう”と書いたけど、電話をして本当にお聞きしました。「ああ、そういえば似ていましたね。あそこは円形で声がとても響くんでよ。リキパレスも、コリセオも、とってもやりやすい会場で僕は好きでしたね」との答えが返って来た。苦労人の北沢さんが最も輝いたのは50年前…1971年夏だろう。

71年夏、コリセオで試合するサタサワ。

私はコリセオ以外にもリキパレスに似た会場へ他に2つ行っている。その一つが山梨県石和町にあった「小松農園パブリックホール」。以前に一度このコラムで触れたことあるけど、改めて聞いてほしい。1985年1月28日の全日本でこの会場へ取材に行っている。場内に入った瞬間に「うあっ、リキパレスじゃん!」と思った。ステージありの円形に近い多角形の会場で、特に迫り出した2階席がよく似ている。それは明らかに他の箱型の「体育館」とはまったく違う構造をしていた。

当時は珍しく靴は下駄箱で脱いだ。この円形ホールの1階部分は何と畳敷きだったからだ。ここは石和温泉の発祥地で、温泉に浸かった後、このホールで演芸を楽むように出来ていたようである。桜田淳子もこのステージで歌謡ショーをしている(1979年8月19日)。私が取材した日のメインは天龍&石川&渕vs長州&マサ斎藤&谷津の6人タッグだった。畳なので、みんな座っての観戦。2000人くらい入れば満員の会場だったが、とても味のあるホールでした。

「それは館内で観た初のゴザ席の試合ですか?」と問われれば、NOです。ファンクスvs馬場&鶴田、デトロイヤーvsマスカラスのあった蔵前国技館の前日の高崎市体育館(1973年10月8日)。そこは何と椅子なしで、客は体育館のフロアに直に座っていた。何だ、こりゃ、ひでえなと思った。地方ではこんなことやっているのかと呆れた。それに比べれば、この小松農園パブリックホールは畳敷きだからラクチンだ。内部の写真をちゃんと撮っておくべきだったと悔やまれてならない。

同年4月1日には新日本が小松パブリックホールを初使用。メインは猪木&藤波vsスーパーストロングマシーン1&2号。でも、これを最後に同ホールは取り壊されて、小松農園の広大な敷地は9月に「JRAウインズ石和」となり、現在に至る。そもそも、小松安則さんという農園主が1956年にここで温泉を掘り当て、「小松遊覧農場」という観光農園にした。観覧車のある遊園地と温泉(ローマ風呂)とぶどう園とバラ園が合体したような複合レジャーセンターだ。高度成長期に出来た甲信越初の大観光施設だけに県外からのお客が押し寄せたという。このホールがもし1950年代に完成していたのならば、61年竣工のリキパレスよりも早い。総合レジャー施設という観点でリキパレスがここをモデルにしたということも考えられないわけではない。

 おそらくプロレスの会場として最初に使われたのは、1969年8月28日の『第一次サーマーシリーズ』最終戦。メインは馬場&大木&吉村vsザ・ブッチャー(ドン・ジャーデン)&ティンカー・トッド&ジャン・セバスチャン。ジャーデンは63年7月の初来日時にリキパレスで試合している(計6度も)。セミが猪木vsマリオ・ミラノ。この日に出ていた星野、小鉄、ヒライ、大熊、駒、高千穂、林らはリキパレスでも試合経験のある選手たちだ(北沢さんは負傷欠場中)。「ここ、リキパレスに似てない?」って思った選手はその中に何人か絶対にいたはずだ。

次が1971年8月30日『サマー・ミステリー・シリーズ』第7戦。確か、この試合はNETが中継し、録画放送している。メインが猪木&大木vsマスカラス&ブル・ラモス。「マスカラスとラモスを組ませるなんて酷いな」と怒りながらテレビを観ていた記憶があるが、まさかここがリキパレスみたいな会場だったとは、思いもよらなかった。マスカラスは「あれ、ここ、コリセオみたい」と思ったかどうか。でも、メキシコには闘牛場のような円形会場が多いので、きっと何かを感じたと思う。ちなみにこの大会のセミは馬場vsグリズリー・スミスの巨人初対決だったが、NETのテレビマッチなので放送できなかった。

71年夏、石和に登場したマスカラス。

 国際プロレスは1975年9月8日にここを初使用。国際もここでテレビ中継をしている。何とタイトルマッチをかませたのだ。草津&井上vsジプシー・ジョー&ザ・キラーのIWA世界タッグ(同月29日録画放映)。ベンジー・ラミレスは“ミイラ男”ザ・マミーとして1964年の『第6回ワールドリーグ戦』に参戦。続く『ワールド選抜シリーズ』に残留して6月2日のリキパレスで試合をしている(ミスター・モトに敗れる)。

草津がザ・キラーに足4の字でフィニッシュ。

国際は翌76年9月6日にもここを使用。中央道はまだ八王子~小淵沢までで甲府に達していない(同年12月韮崎まで開通)。メインは木村&大位山vsギル・ヘイズ&アル・ブルジョーがメインで、セミは井上vsミスター・セキ(ミスター・ポーゴ)。この時もテレビ中継で、ゲスト解説に元日本プロレス社長の芳の里が来ている(驚きの人選だね)。きっと芳の里さんは、この会場に入ってリキパレスの幻覚に困惑させられたのでは…と勝手に想像する。同月27日にオンエアされて、私も観ているはずだが、芳の里さんがどう国プロの選手たちをどう“オイショ”したのか全く記憶にない。

 全日本がここを初使用したのは1981年11月29日、『81世界最強タッグ決定リーグ戦』第3戦。メインの公式戦はシン&上田vsハーリー・レイス&ラリー・ヘニング。セミがファンクスvs極道コンビ。公式戦外ではブロディ&スヌーカvs馬場&阿修羅、鶴田vsマーク・ルーイン、シークvsトンガなんかが組まれていた。私はこの時に行っていない。この中ではラリー・ヘニングが1962年4月20日、『第4回ワールドリーグ戦』の前夜祭でリキパレスのリングに立っている。

 もし時間があれば、石和の場外へ行ってみてほしい(足湯もあるよ)。そこには「石和温泉発祥の地」という碑はあるが、「小松パブリックホール跡」の碑や痕跡はない。現地で唯一当時を偲ぶものがあるとすれば、「コマツガーデン」というバラとハーブを中心としたフラワーショップだろう。56年に温泉を掘り当てて「小松遊覧農場」を作った小松安則さんの甥・孝一郎さんは施設内にバラ園を作って大評判となったという。孝一郎さんの妻が68年に作った小鳥と花のショップを作り、長女が引き継いでリニュアルしたのが「コマツガーデン」。小松の名はこの地で息づいている。

73年のメヒコへ星野と林は一緒に行く。

さて「リキパレス」、「アレナ・コリセオ」、「石和小松パブリックホール」…この3つのそっくり会場で試合経験があるのは駒と星野、それとミスター林という結論に至る。冒頭にリキパレスにいた会場はコリセオ以外に2つあると書いた。そう、実はもう一つあるんです、幻のリキパレスが…。それはまた次週に!

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅