
先週の金曜日に神田明神で私の息子・晴信が結婚式を挙げた。38歳になっても、まったく浮いた話がなかったけど、よくぞ電撃ゴールを決めてくれたと思う。私は息子の前で彼をあまり褒めたことがないが、今なら胸を張って言える。アイツは今まで一度もぐれることなく、手間もかからず、真面目で、心優しい、草食恐竜ステゴサウルスのような子であった(背も高く、マスクだって決して悪くない。今までコイツの良さを見抜けなかった世の中の女どもの目は節穴か……)。だからこそ新婦には“お見事!”と拍手を送りたい。残り物には福がある……ではないが、よくぞ晴信の良さを見抜いて一緒になってくれたと思う。大人しくて優しい性格の嫁である。いい娘を射止めた。めでたし、めでたし。それにしても結婚式っていいものだ。42年前の自分の結婚式や披露宴の高揚感を思い出したよ(あれは実に楽しかった……)。でも私の時とは大違いで、純和風の結婚式。由緒ある神田明神で挙げることも息子が全部決めた。こんな立派な社殿での式に出るのは初めてだし、紋付き袴を着るのも初めてのこと。いろんな人に「似合いますね」と言われて大満足。新郎の父は準主役……みんなからチヤホヤされるのも悪くない。そして一生に一度の大役……見事果たすことができた。やはり、この式を一番見せたかったのは妻の美津子だった……。一人息子を厳しくも愛情いっぱいに育ててくれたからね。それから101歳になる母・み祢子が式に出席できたのは清水家にとってとてもハッピーであった。孫の晴れ姿を何とか見せられたよ。実にめでたい一日でした。

さて、24日(水)発売のGスピリッツVol.80の表紙ができた。

コンテンツは以下の通り。今回もなかなか濃いよ。
[特集]
王道の軌跡
―昭和・平成の全日本プロレス
[回想]
渕正信
川野辺修
和田京平
木原文人
[インタビュー]
ザ・グレート・カブキ
回想―高千穂明久のアメリカ武者修行
【前編】UNヘビー級王座が誕生した日

武藤敬司
「外国人レスラー」と「海外のプロレス」を語る【中編】
山崎五紀
「全女のプロレス」とは何か?【後編】
[連載]
第二次黄金時代の力道山
【最終回】猪木との師弟タッグが見送られた理由とは?
[アリーバ・メヒコ]
エル・パンテーラ
まだまだ元気な黒豹仮面の
知られざる経歴と輝かしい実績
【前編】女子プロバスケットボール応援キャラ

[原悦生の格闘写真美術館]
第80回「1987年」
今回、私は和田京平レフェリーにインタビューをしている。京平ちゃんとの付き合いは長い。最初のシーンをよく憶えている。あれは1976年1月2日の後楽園ホール。『新春ジャイアント・シリーズ』の開幕戦。「あそこに上りたい」……私は閉まったシャッターを少しだけ開けて、バルコニーに忍び込み、そこからこっそり望遠で写真を撮る。今と違ってバルコニーは開放されていなかったのだ。あそこに最初に行ったファンは私かもしれない。セミはジャンボ鶴田vsミル・マスカラスの首都圏初対決。その時、私以外誰もいないバルコニーに京平ちゃんが入って来たのだ。私は前座を裁いていたレフェリーと気づかず、生意気に「ここ入ると怒られるよ」なんて声を掛けてしまった。そのお兄さんは「俺、リング屋なんだよ」と笑った。そこからファンクラブの会長と新米レフェリー……いや、リング屋のお兄さんとの不思議な関係が始まった。真夏のマスカラス追っかけツアーの際には毎日顔を合わせていた。京平ちゃんはリングを組み立てた後、トラックの中でレフェリーのシャツを着て、リングシューズを履いていた。「清水君が毎日、毎日どこへ行っても来るから呆れたよ」と京平ちゃん。鹿児島でレンタカーを借りて移動している最中、道中で京平ちゃんの乗るリング屋さんのトラックと競争したこともあった。スティーブン・スピルバーグ監督の映画『激突!』のような乗用車とトラックとのカーチェイスは、私がゴングに入ってからも続いた。あれは松本からの帰りだったか。中央高速で京平ちゃんの乗るトラックを追い抜いた。そこからサイド・バイ・サイドのデッドヒートが続く……。助手席にいたウォーリー(山口)が窓から生ケツを出して並走する京平トラックに見せる。「これ、アメリカでの移動中にマードックがやっていたやつだよ」とウォーリーが笑う。すると先行したトラックから何かが飛んできた。爆竹だった。それは真っ暗な中央道でババーンと弾けた。あれは驚いたよ。京平ちゃんも45年前のそのことをよく憶えていた。「今、あんなことをやったら捕まるよね」と爆笑。そんな京平ちゃんへの初インタビュー……楽しみにしてください。

先週のコラムに載せたことで誤りがあった。その後の情報で、馬場さんの生家が最近、取り壊されてしまっていたのだ。何かおかしいとは思っていたんだよ。10年前に行った時の記憶にある家がなかなか見つからず、その辺りをうろうろ何往復もした話を書いたでしょ。生家は八百屋だったから、野菜に陽が当たらないようにする巻き込み式のひさしがあるのが特徴だった……。でも、その特徴の家が見当たらない。私は近所で「馬場さんの生家はどこですか?」と、年配の二人に尋ねた。一人は「あの先のあの辺りですよ」と……それでも見つからず。もう一人は「あの三つ目の橋のすぐ手前で、今は完全な空き家、赤いカーテンがしてあって中は見えないですわ」とかなり具体的に教えてくれた。でも、そこへ行ってもない。それで“もしかしたらこれかなあ。う~ん、何かちょっと違う気がするけど……”というような空き家の写真を車の中から撮って退散したわけ……。そうしたら、やっぱり取り壊されていたという情報を後日知って愕然とした。ただし、今回私が撮った写真の「奥の看板が立っている空き地が生家の跡ですよ」という方からご連絡をいただいた(ありがとう……)。そうか、場所的には間違っていなかったんだね。それにしても名誉市民なんだから……市には生家を保存してほしかったけどなあ。ああ、昭和のプロレス遺構がまた一つ消えてしまったよ。来週から私は北海道へ長期遠征するけど、コラムは4週分ほど書き溜めてあるのでご心配なく(ヒグマにやられたら遺作集になるかも……)。とりあえず次回は、この三条の話の続編です。