メキシコにいます。まだ着いて丸3日目だけど、どれだけの人とハグをしたことか。日本じゃ、日本人同士でメッタにハグしないから、〇年分したかも…。自分で言うのも変だが、ドクトル・ルチャはメヒコのルチャ関係者たちにとってレジェンドの域に入っているようだ。行く所、行く所、「おおっ、トマス!」「ドクトル・ルチャ!」の連発だ。そのたびにハグをする。これがメキシコ流だ。前半の一週間は「ドクトル・ルチャと行くルチャ・リブレ観戦ツアー」なので、ご一行との一緒の旅。そういうタイトルが付くだけに、頑張ってみなさんをガイドし、日々、いろんな企画をぶち込まなければならない。「メキシコ観光」から出ている旅行案内書など形式的なもので、出発前の一週間が勝負…そして現地に着いたら現地人(選手&OB&関係者)たちと連絡を取り合っていろんな新企画を放り込む…これが大事。何せ、時間を守らない?人種なのと、相手のスケジュールもあるからギリギリまで交渉する必要があるのだ。と言っても、私のアミーゴたちは約束をしっかり守ってくれる。初日は肩慣らしでソラールの家へ行った。ツアーのお客さんの中にタイガーマスク世代の方がいたので、彼に合わせての企画だ。佐山タイガーと戦った相手はベビー・フェイス、ネグロ・ナバーロ、カネック、アルコン78など極めて少なくなった。我々が早朝のメキシコ到着と知るやソラールは「妻が朝食を作るので、みんなで食べよう」と提案してくれた。そしていきなりのメキシコでの一食目はソラール家の朝食から始まった。ソラールとの話は亡くなったクニアキ・コバヤシに始まり、エル・ソリタリオやフランシコ・フローレスとの思い出話に終始した。
そして午後はエル・サント銅像からアレナ・コリセオ、アレナ・メヒコを巡ってホテルへ。旅装を解いてからはサトル・サヤマが2年間、基地にしていたホテル・サンマルコを訪ね、その後の夕食はメキシコでは高級料理の部類に入るアルゼンチン料理屋へ(日本にはほとんどない)。ここで立派なステーキを食べて初日を終える。
2日目の午前中はシウダ・デラという有名な民芸品街でお買い物。数百件密集するお店にはルチャグッスもいっぱい。ここへ早めの日に来たのは、この後のスケジュールが立て込んでいるからだ。昼はエル・ファンタスマのタコス屋で昼食。昼からテカテ(私の一番好きなビール)を飲む。ここのタコスは大衆的だけど、なかなか美味かったよ。さすがルチャコミッショナーの店だけあって、研究され尽くした味とスタイルと言える。私もここは初めてだった。一旦、ホテルに帰って体勢を整えて、夕方からアニベルサリオ観戦のためにアレナ・メヒコへ。試合開始は8時半だが、会場前に100件近く並ぶ露店で買い物をするのは、忘れてはならないコースの一つ。ここでは去年まで別のブース(トンネルと言われる通りを挟んだ施設)にいたオクタゴンやフエルサ・ゲレーラも店を構えていた。オクタゴンとは1年ぶり、日本に家族で来たフエルサとは半年ぶりの再会だ。
露店の雑踏の中で今年もレオンから遥々来たボビー・リーの家族や懐かしい旧友たちに会えた。CMLLの特別な計らいで、我々のツアーのためだけにバックヤードを案内された。1956年4月の開場から68年間、数千人の選手たちを鍛え上げた3階と4階のヒムナシオに入れたのは、ツアー客たちにとって至極の喜びだったようだ。そこにお客のリクエストで大好きな選手をわざわざ呼んでくれるというオプションもあった。この日のリクエストは第1試合に出るフゥーロとエスパント・ジュニア(2代目)。エスパントはユニバの旗揚げ戦に来日したエスパント・ジュニアの息子で、この日は試合がないのにわざわざ来てくれた。私にとってこの日、一番超嬉しかったのは、エントランスで出会ったEMLL(現CMLL)二代目当主サイバドール・ルテロ・カモウさんだ(通称チャボさん)。さすがにもうご高齢だからティファナからきていないだろうと思いきや、まさかまさかのご来場だった。御年99歳!間違いなくプロレス関係者の世界最長老である。力道山生誕100年だから、99歳は凄いの一言。力道山は1954年に日本プロレスを興したが、チャボさんは1942年からプロモーターをしている。99歳といえば、私の母親と同じ歳だ。母は新横浜の老人ホームで車椅子の生活をしているが、チャボさんはキチっと背筋が伸びて杖も突かずにスタスタ歩いておられる(驚き!)。そして今もボクシングのトレーナーをされているというからびっくり!。2017年のルチャEXPO以来にお会いしたのだが、とてもお元気だった。
試合前にトイレに行こうとエントランスへ行ったら、またチャボさんとまた出会う。すると私を捕まえてボクシング特訓をさせられた。構え方、パンチの出した方、かなりマジであった。最後は凄いボディブローを入れられた(動画も録ったよ)。「この続きは来年の92周年でやろう」とお約束する。まさにルチャ・リブレ界の昭和天皇に出会った…それに等しい。いつまでもお元気で…来年、またお会いしましょう。では、アニベルサリオの試合。我々、ツアー客たちの席はリングサイド3列目。放送席の隣という絶好のポジション。チケットは早いうちからソウルドアウトで超満員だ。お目当ては4ウェイのマスカラ戦(エチセロvsエスフィンヘvsエウフォリアvsバリエンテ)。試合前の巷の予想は「バリエンテが脱ぐだろう」と言われていた。私に理解できないのは4ウェイの時点で2人に絞る方法が、CMLLは勝ち残りであるということ。これはどう考えても負け残りだろう。1970年代からずっとそういうルールだったのに…。勝ったのにマスクを脱ぐかもしれないハイリスクを背負うのは…どう考えても消去法でないとおかしいよ。「最後の2人に残ることが栄誉なんだ」というのは、とって付けた理由でしかないと思う。それで、最初にエスフィンヘが最初にフォールされて負け逃げ、続いて素顔になる本命だったバリエンテが負け逃げ…。その瞬間、ファンもアレレと戸惑う。勝ち残ったエチセラとエウフォリアによるマスカラ戦がコールされ、ここからの大型ルード同士の死闘は、場内を大興奮させる。結果、エチセロがエウフォリアをギブアップさせて、エウフォリアがマスクを脱ぐ。敗者は珍しく本名と出身地、年齢、キャリアは自分からマイクで名乗った。
これはいい試合で、超満員のファンを感動させたが、メインが最悪だった。ミスティコvsクリスジェリコの試合(何も懸からないタダのシングル戦)はテーマが不明確の上にグダグタで、場内から大ブーイングが飛ぶ。仕舞いにはマスカラ戦の勝者「エチセロ」のコールが起こった。そして帰り出す客も多数…。こんな試合はちょっと観たことがない。ミスティコも、ジェリコも、決して悪いわけじゃない。これは明らかにマッチメークのミスだ。マスカラ戦をメインにしなかったためにこうなったのである。マスカラ戦はルチャの最高峰の決着ルール。ルチャドールが一生に一度選手生命を懸けた大勝負で、そこに感動のドラマが生まれるのは必然のこと。あの感動の後に、もう気持ちをリセットするのは難しい。これを読めなかったのは、猛省すべきである。マスカラ戦の感動は完全に冷め…可哀そうに試合中も、勝った後もミスティコには大ブーイングが飛んだ。そのブーイングにはルチャを真剣に愛するアレナ・メヒコのファンたちの厳しいまでの気持ちが込められていると思った。
3日目、午前中にビジャノ4号が経営するマスク&お菓子屋さんへ行く。ビジャノ・クアルトことトマス・ディアス・メンドーサに、先日亡くなった兄の5号(ムンド)のお悔みを言う。5号は両親や兄貴たちの墓地ではなく、火葬して骨壺に納められて息子たちが管理しているらしい。トカヨ(同名)にはいろんなレアなマスクを見せてもらった。
その後、ソラールの店に移動する。この日は恒例のレジェンドを呼んでのサイン&撮影会。グアダラハラから来たザ・キラーがこの日のゲスト。とってもレアなゲストだ。1991年夏、初来日となるW☆ING以来の再会だ。さらにシルコ・ボラドールへ移動してファン・ミーティングに参加。今回はUWAの懐かしのルチャドールたちのマスク販売&サイン&撮影会だ。ここではカネック親子、ドス・カラス、ランボー、スペル・アストロ、エル・アルコン、マノ・ネグラ、ケンドー、イホ・デ・ブラック・シャドー、インドミト、アルコン78、パンディータ、タケダら去年と同じメンバーが(他も大勢)ブースを出していたが、去年はいなかったマスカラ・アニョ・ドスミル、キッス、カオス、シクロン・ラミレスらも来ていた。
そして7時30分試合開始のアレナ・コリセオの定期戦へ。去年は行けなかった、1943年開場…メキシコ最古のプロレス専用アレナは、会場内に入れるだけで心が躍る。ある場所は危険な地区だが歴史空間を堪能してもらえるだけで十分来る価値がある。“メキシコの巌流島決戦”1952年11月7日、エル・サントvsブラック・シャドーのマスカラ戦など、多くの歴史がここに詰まっている。1979年に私が初めてルチャを観たのも、このアレナ…。思い出がアレナ・メヒコ同様に詰まっている。この日のコリセオは全試合、内容が最高であった。まず客の質と声援が素晴らしい。ルードとテクニコのメリハリが効いている。お世辞抜き、文句なしに興奮できたいい興行であった。ツアー客一行は大満足。試合後にはフエルサ・ゲレーラの自宅にお呼ばれての夕食。恐ろしいばかりの豪邸での会食はとっても有意義で、その後の談笑は深夜にも及んだ。さすがに疲れた…。まだ、3日目なのにツアーのお客さんたちは満タンで、吹きこぼれている様子。でも、みなさんタフに付いて来てくださる。満足そうな顔が何よりの励みだ。
明日(15日=)から2日間はプエブラへの小旅行だ。プエブラで2泊して、アレナ・プエブラで観戦(CMLL)…そこからパチューカへ移動する。パチューカ(ラ・フィシオン)ではAAAの大会を観戦する予定だ。これは日本出発3日前に決めた突撃のオプショナルツアーである。月曜日のプエブラ、火曜日のパチューカは1970年代後半から1990年代前半までのUWAメキシコ周辺都市の主要サーキットコースだ。そこはグラン浜田が、リング・フヒナミが、テムヒン・エル・モンゴルが、栗栖正伸が、サトル・サヤマが、リッキー・チョーシューが、そして亡きクニアキ・コバヤシが毎週のように辿ったコースである。団体こそ違えど、同じ曜日の同じコースと、そして懐かしの同じ会場での大会をなぞることが出来る…というわけだ。メキシコシティを飛び出してのこの小旅行…どんな旅になるのか、次回の報告をお楽しみに…。