ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第596回】嗚呼、懐かしのゴルフブーム

 先日、久しぶりにゴルフをした。最後にラウンドしたのがいつだったか…17年くらい前だったように思う。高校の同級生に誘われて同窓会気分で本栖湖近くの『富士クラシック』というコースでラウンドした。スコア(?)…超悲惨なものでした。17年のブランクはあまりに大き過ぎた。でも18ホールをちゃんとラウンドできただけでも、自分を褒めたいと思う(ただゴルフはもう引退しようと思った…)。

 子供の頃からゴルフは好きだった。昔、アーノルド・パーマー、ジャック・ニクラウス、ゲーリー・プレーヤーが出て来る『ビッグ3ゴルフ』という白黒の米国番組にハマって観てゴルフに憧れた(佐山さんも観たことあるって言っていた)。それで当時、中学生だった私は物置から親父の使わないクラブを持ち出して、プラスチックの穴の開いた飛ばない玉を打っていた。誰もいない広い芝生が家から5分くらいの所にあって、そこで自己流の特訓をした。中学時代の唯一のお洒落は、ゴールデンベアのマークの入ったソックスを学生服のスボンの下でチラつかせることだった。「会社員になったら必ずゴルフをやろう」と思った。ところがゴングの編集部でゴルフをやる人間は私以外誰もいなかった。運転免許を持っていたのも私だけ…。でも、私は友人たちとゴルフの練習とラウンドを始めた(雑誌とテレビを見て理論を叩き込む)。

 ゴング編集部にゴルファーは不在でも、日本スポーツ出版社自体はゴルフ好きの巣窟だった。中心となったのが役員の塩田正さん。1956年に東京教育大学(後の筑波大学)を出て同年にベースボールマガジン社に入社し、『ゴルフマガジン』の編集長になった人。68年に同社の有志たち独立して日本スポーツ出版社を設立する際、ゴルフの雑誌を出すか、人気のプロレスの月刊誌を出すかで悩んだらしい。結局、馬場の全盛期で盛り上がりを見せているプロレスを取って『ゴング』を創刊したという。続いて71年3月に創刊したのが月刊誌『イレブン』。サッカーはペレやジョージ・ベスト、釜本らで注目のスポーツだった。結局、塩田さんはゴルフの雑誌を日本スポーツ出版社で作らなかった。ただ、プレイヤーとしての塩田さんはプロ級で、最高のハンデは5。ベストスコアは69、ホールインワン4回、アルバトロス1回、エージシュート21回という兵。ゴルフライターとしての著書も多く、東スポでは長く技術系の連載コラムを持っていた。そんな役員がいる会社だから、部下たちはゴルフ好きが多く、社内コンペも年に春秋2回あった。

 私は、その社内コンペにいきなり殴り込みをかけようと、会社に内緒で密かにラウンドを繰り返し、初出場での初優勝を狙った。それで80年半ばに社内コンペデビューし、準優勝して塩田さん以下ゴルフ狂の先輩社員の面々を驚かせたものである。でも、その頃、プロレス界でゴルフをやっていると聞いたのは馬場さんと山本小鉄さんくらいで、そんな大御所たちとプレイするなんて夢の夢だった。ところがである、90年代になると、新日本プロレスに突然、ゴルフブームが吹き荒れたのだ。ちょうど三銃士の時代。あの頃、新日本でゴルフをやっていない上位の選手はライガーくらいか。あとはほぼ選手全員がやっていた。

藤波さん、東スポの太刀川社長とご一緒したことも。

 新日本は年に1回大きなコンペがあって、選手、社員だけでなく、マスコミ、関連業者が大勢招待された。その大会にはゴングからはいつも私が代表として参加していた。沼津の『愛鷹シックスハンドレットクラブ』での開催が多くて、そのゴルフ場を新日本が丸一日貸切ってしまうのだからすごいスケールのコンペだった。毎年総勢で120人くらい参加していただろうか。音頭を取っていたのは坂口社長(当時)で、猪木さんが参加した時も1回だけあった(一度ご一緒に回りたかったなあ…ざ、残念!)。コンペの優勝賞品がすごかった。サイパン旅行のこともあったし、ハワイ旅行の年もあったし、乗用車(カローラ)の時もあった。あれは私にとってのG1だった。何位だったか忘れたけど、上位に入賞して温泉旅行券を2回(箱根湯本のホテルが1回と、5箇所の温泉宿から1軒選べる特別宿泊ご招待券が1回)を賞品でもらっている。それから高級アイアンセットをゲットしたこともあった。一緒にラウンドした長州さんがかなりゴルフに狂っていた頃で、そのアイアンセットをやたら欲しがっていた。だから私に取られたので「クソーッ」と凄く悔しがっていたのを思い出す。そのアイアンは今も健在だ。振り返ると、バブルな時代だったなあと思う。その頃の写真を探したが、意外とない。今みたいに写メが撮れた時代でないし、取材として行ってないからだろう。それほど誰もみんながゴルフに集中し、優勝や入賞を狙っていたのだ。

猪木さんと小鉄さんの練習風景

 プロレス記者たちにもゴルフブームがあった。よくいろんな新聞社のプロレス担当記者やカメラマンたちとプライベートでゴルフに行った。一番よく一緒に行ったのはフリーカメラマンの原悦生さんと。東スポの川野辺さんはゴルフを通じて仲良くさせてもらった。佐々木健介や越中詩郎らをゲストで呼んでやったこともある。やや遅れてゴルフに取り憑かれた越中のデビュー戦は我々マスコミのミニコンペだった。私は個人的に高田延彦&山ちゃん(山崎一夫)を誘って3人だけでラウンドしたこともあるし、大仁田のFMWのコンペやUWFインターのコンペに呼ばれて、要らないゴルフバッグや商品等を貰って帰ったこともあった…。

高田選手と山ちゃんとのスコアカード。

また、大塚直樹氏から連絡があって竹田勝司会長、新間さんと何度もラウンドしている。そのお三方とも上手だった。あまり知られてないけど新間さん、ゴルフ上手かったよ(90年代の話だけど…)。他の背広組ならば倍賞鉄夫さん、上井文彦さん、永島勝司さん…みんな上手かったなあ。選手(OB)で上手かったのはやっぱり小鉄さんだった。選手たちは異常なくらい飛ばすけど、曲がると明後日へ行っちゃうし、総じて小技が苦手だった。とにかく、あの頃は誰も彼もみんなゴルフをやっていた感じ…。決してゴルフを仕事のための武器にしていたわけではないけど、いろんな選手、関係者たちと自然と仲良くなれたことは大いにプラスになったと思う。それとリング上で見るようなレスラーたちとは全く違う顔や性格がゴルフの時に出るので、それを見られたのは面白かった…。

ただ、全日本の選手たちの中でゴルフをやっているという話は耳にしなかった。馬場さんと同じ趣味を持つのを知られると、「オフの時までお供させられるのはちょっと…」と思ったからだろうか。馬場さんも選手たちに「やれ」と強要をしなかったのじゃないかと思う。坂口さんなら「いいからお前もゴルフやれよー。クラブがないならやるからさ」って言っただろうなと思う。みんなで一緒にゴルフを楽しもうとする開かれた新日本に比べて、全日本は馬場さんの存在が大き過ぎるが故に閉鎖的だったように思えるが…。

 日本スポーツ出版社のコンペの常連になったのは越中詩郎だった。彼は試合がなければ、軽井沢でも水上の山奥でも必ず我が社のコンペに参加した。そして新日本にゴルフブームが去った後も、一人ゴルフ熱が消えなかったのも越中だった。「昔、馬場さんのキャディーバッグの担いで回らされた時に、“なんだゴルフなんてこんなもの!”と思っていた俺がこんなにハマっちゃうとはねえ」。彼は今でも私に会うたびにゴルフの話ばかりして来る。そしてもう1人、遅れてゴルフにハマったのが佐山さんだ。昔はゴルフのゴの字も言わなかった人が10年前くらいから「清水さん、今度ゴルフに行きましょう」を連発するようになった。でも、私はすでにゴルフを断っていたので、一緒にラウンドすることは叶わなかった。その後、身体を壊した佐山さんは「今はゲームでオーガスタナショナルとかをラウンドしていますよー」と笑っていた。今となって、いろんな選手たちとゴルフを通じていろんな思い出を作れたことに感謝したい。もし心残りがあるとすれば、やっぱり一度でいいから馬場さんとラウンドしてみたかったなあ…。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅