ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第641回】テキサスの鉄拳野郎

 MLBワールドシリーズはアリゾナが敗れてテキサス・レンジャースが1961年創設以来、初の優勝を果たした。「テキサス・レンジャー」とはメキシコ領テハスに入植したアメリカ人が先住民のインディオからの襲撃に対抗するために1823年に組織した自警団(騎馬パトロール隊)。テキサスの新選組みたいなものか…。近藤勇ならぬ、隊長はスティーブ・オースティン(おい、何処かで聞いたなあ)。そのオースティンが後にテキサスの州都の名前となる。だからテキサス・レンジャースは本家のテキサス・レンジャー設立からちょうど100年目に世界一の快挙を成し遂げたことになる。実は「テキサス・レンジャー」なる覆面レスラーがテキサスから国境を越えてメキシコへ殴り込んで来たことがある。1979年1月20日のパラシオ・デ・ロス・デポルテスでのこと。興行主はゴリー・メディナ。それは第3団体スペル・リブレスの旗揚げ戦で、マスクマンのテキサス・レンジャーを迎え撃ったのは、我らがミル・マスカラスだった。IWAの世界ヘビー級のタイトルマッチをやって外敵退治をした。テキサス・レンジャーの正体は、あのホセ・ロザリオである(スペイン語ではHを発音しないので、メキシコではロタリオと呼ぶ)。本名はホセ・グアダルーペ・ロブレド・ガルシア。グアダルーペはカトリックの聖母。そこからロザリオ(十字架の付いた祈りの道具)を連想してリングネームにしたのだろうか。

若き日のホセ・ロタリオ。

ロザリオは1934年12月12日、コアウィラ州トレオン出身だから純粋なメキシコ人。私の手元の資料では1956年8月5日のアレナ・メヒコでのナショナル・ヘビー級王座決定トーナメントに初出場している。だから恐らく地元での本デビューはそれより3年くらい前だと思われる。同月17日のアレナ・メヒコではブラック・シャドーと組んでカベルナリオ・ガリンド&レイ・メンドーサとメインを張っているわけだから、すでに高い評価がされていたことがわかる。ちなみにこの日にセミでは木村政彦がアレナ・メヒコ初登場(vsカルロス・モレノ)、その下で清美川がミグエル・キングと試合している。メキシコでは大柄なロザリオは、60年代にアメリカに戦場を移す。最初に名前を挙げたのはフロリダだけど、デューク・ケオムカとジャック・アドキッセン(フリッツ・フォン・エリック)のラインでテキサス地区に転戦して大ブレイク。69年6月7日のサンアントニオでジョニー・バレンタインを破ってテキサス・ヘビー級王座を初戴冠。71年11月の同所でバレンタインを破って2度目の獲得。ニックネームはスーパー・ソック…鉄拳野郎とでも訳しておこうか。それほどロザリオのパンチのラッシュは有名だった。

69年レスリングレビュー1月号の表紙に。
バレンタインのベビー転向でタッグを。

72年に日本プロレス『第14回ワールドリーグ戦』に実弟のサルバドル(キッスの父)と一緒に初来日。3月31日、後楽園ホールの開幕で星野勘太郎を破ったまでは前年のマスカラスと一緒。2戦目の長岡での初公式戦では上田馬之助を破る。3戦目の新潟ではミツ・ヒライに快勝。続く福島での公式戦では大木金太郎に公式戦で初黒星。4月6日の秋田のグレート小鹿との公式戦も勝利した。ここで負傷欠場して帰国したことになっているが、私は最初から1週間だけの契約だったのではないかと思っている。現に4月11日のフォートワースからロザリオは元気にテキサス地区のサーキットを回っているからだ。まあ、日本へ1ヵ月以上行ってられないほどロザリオはテキサスで超売れっ子だったということである。日本ではシングル4勝1敗…決して悪くない扱いだったと思う。ロザリオはこの年の10月にはスタン・スタジャックを破ってテキサス王座3度目の獲得。73年はミズリー・モーラーとブラック・マリガンから奪って、通算獲得数を5回に伸ばした。この72~73年にNWA世界ヘビー級王者のドリー・ファンク・ジュニアにヒューストン、ダラス、サンアントニオで4度対戦し、72年6月20日のヒューストンでの初対戦では勝利している。その後のハーリー・レイス政権で1度、ジャック・ブリスコ政権で5度も挑戦していることも付記はしておく。

開幕で星野勘太郎を破り日本での初陣飾る。

73年11月30日のヒューストンではミル・マスカラスと組んでブラック・ゴールドマン&グレート・ゴリアテからテキサス・タッグ選手権を獲得している。テキサスで英雄視されるロザリオとマスカラスのコンビはテキサスっ子を狂喜させた。この時期、ドス・カラスはロザリオのサンアントニオの自宅に居候して、同地区の小サーキットを巡回している。ロザリオはドス・カラスの実戦の師匠といえる。ドス・カラスが『第7回チャンピオ・カーニバル』でアメリカ人選手に臆せず渡り合えたのはロザリオからの教えがあったからだと言われる。私も79年にロザリオとマスカラスのコンビをヒューストンで観たが、爆発的な人気はメインのワフーvsドリーを食っていた。控室で会ったら、人のいいおじさんタイプだった。普段は温厚で、リングに上がると火が点く…こういう血の気が多く気迫あふれるメキシカンがテキサスの人間たちは大好きなようである。

サンアントニオでドス・カラスを鍛える。
マスカラスとの超人気タッグチーム。

 ロザリオは75年6月に里帰りしてホセのない「ロタリオ」の名前で試合をしている。6月13日のアレナ・メヒコ。Wメインでペロ・アグアヨvsマーティー・ジョーンズのカベジェラ戦、ドクトル・ワグナーvsアルフォンソ・ダンテスのNWA世界ライトヘビー級選手権があったその下でロタリオと対戦したのは欧州から転戦してきたばかりのゴロー・タナカ(鶴見五郎)だった。ロザリオはテキサス以外の土地ではマスクを被ってザ・テキサスと名乗ってヒールをすることもあったようだ。68年のロスでマスカラスと戦ったザ・テキサスはロザリオでは無かったと思うが…。そして前述の79年1月のパラシオでのマスカラスvsテキサス・レンジャーが79年1月。サンアントニオから親友のマスカラスがワンマッチでロザリオを招聘したのである。テキサス・レンジャーは、81年6月14日、モンテレイでグラン・マルクスとマスカラ・コントラ・マスカラをやって敗れ、マスクを脱いでいる。マルクスは同郷コアウィラの出身で、テキサス遠征時には面倒を見ていた後輩ロザリオ自身は、その時、47歳だった。マルクス&ジノ・フェルナンデスとは、その頃、テキサス・タッグやカリビアンヘビー級王座を懸けても抗争をしている。83年6月17日のダラス・リユニオン・アリーナでのフリッツ引退試合。ここでの6人タッグは全日本中継で放送されYouTubeでも観られる。チャボ・ゲレロ&クリス・アダムスと組んでフィッシュマン&ビル・アーウィン&モンゴル(テキサス・レッド、ジン・ルイス)。ここでも会場の声援、一番人気はやっぱり老雄ロザリオだった。引退後は教え子のショーン・マイケルズのマネジャーとして『レッスルマニア12』でのブレット・ハート戦ではセコンドに入った。それが最後の華か…。亡くなったのは2018年11月6日。享年83。もう少し長生きしていたら、テキサス・レンジャースの初優勝が見られたのになあ。

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