ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第545回】懐かしの場所で流した汗

 2週にわたって取り上げて来たリキパレスに類似した会場の話…もう打ち止めにしようとしたら、その後、いろんな方からご意見や情報が寄せられた。諏訪の先輩、吉澤幸一さんは「石和の小松遊覧農園は子供の頃に行きましたよ。甲信越のファミリーにとって夢のような娯楽施設でしたからね。遊園地やボート遊びは子供たち、ブドウ園やバラ園、温泉は大人たち、ファミリーで楽しめた昭和30年代からあったテーマパークでしたよ」と教えてくれた。「パブリックホールは早くからあったはずです。私も最初にここに入った時に“ナニコレ!って驚きましたから。今まで見たことのない超画期的な円形ホールでしたよ”。リキパレスと同じ設計者、あるいはここをリキパレスが参考にして建設したのでは、ということは十分考えられますよね」。

そう、吉澤さんと私の一致した意見は、「ここはプロレスファンの皆さんに一度、体感してほしい建物ですよね」ということ。中に入れば「ええっ、ナニコレ!」と感動すること間違いなしなのだ。そしてプロレスを観るのに理想的な空間であったと感じてもらえたはずだ。それはリキパレスに入った竹内(宏介)少年のワクワク感と同じだったのだろうと想像する。

76年の石和。吉澤さん撮影の井上vsセキ(ポーゴ)。

そして熱海後楽園ホテル。仙台の岩松正記氏からは「現在のホテルの公式サイトを見てもホールがないです」と教えていただいた。そのサイトによると2016年にホールは閉鎖されている。さらにオカダくんの調べだと、閉鎖は同年8月31日だということがわかった。私が再訪したのは6月だったから、その2ヵ月後にフィニッシュになっていたのだ(セーフというか、寂しい…)。

改めて調べると、1965年8月1日のホテルのオープン時には「円形大ホール」として存在していたことがわかった。この時期にはまだリキパレスは稼働している(66年11月まで)。ということは、この大ホールを作るのに、後楽園側がリキパレスの構造を参考にしたとも考えられる。北区の深江正人氏も興味深い話をしてくれた。「巨人軍が毎年納会で、あの大ホールを使っていましたよ。それから三波伸介が司会の頃に“笑点”もあそこで中継していました。読売グループ、日テレ系のホテルなのに日プロより国プロの方が先にプロレス会場として使用したのが面白いですね」。確かに69年1月に国際が初使用して、日プロは9月に慌てて(?)ここで興行を打った感がある。

こうしたご意見、なるほどという話は、これだけで終らなかった。GスピリッツVol.61が出た直後に大塚直樹氏から連絡を頂いた。ご自分の連載のことかと思ったらリキパレスの事だった。「89ページのリキパレスの全景写真を見て驚いたんですよ。あそこに駒澤大学の校舎が写っていたのにびっくりしたんです」。大塚氏は駒沢大学の出身。通学していたのは、現在もある世田谷区の駒沢キャンパス。「先輩が渋谷の校舎が…って、よく言っていたんですけど、僕は何なのか、ずっとわからなかったんです。でも、あの写真を見てわかりました。リキパレスの近くに校舎があったんですね」。

その後、改めて大塚氏と電話でお話したら、深い話が次々飛び出した。

「僕はリキパレスへは行ったことはないです。でも、あの“エムパイヤ”というキャバレーには行きましたよ」。リキパレス閉鎖後に“日本初のスタジアム型の大型キャバレー”というのが売り文句で、67年にオープンしたキャバレーだ。しかし、これまでに内部の写真が見つかってないし、エンパイヤに入ったという人の話も今まで聞いたことがない。それが、身近に貴重な証言者が!

キャバレー閉鎖後も「エンパイヤ」の文字が。

「まだ入社して1、2年くらいでしたかね…倍賞鉄夫さんと猪木啓介さんと一緒に行ったんですよ。新日本の青山の事務所から渋谷は近いですからね。確かに円形の広いフロアがあっ、ボックス席で仕切られていましたね。ダンスフロアもあって、バンドも入っていたですかね。いわゆる2階席みたいなものはなかったですね。全面改装したんでしょう…。そこがあのリキパレスだったという感覚は持たなかったですよ。我々のようなサラリーマンが入れるくらいですから、良心的な価格だったと思います。あそこはミカドの系列でしたよね。赤坂の“ミカド”にも行きましたよ。ミカドは背広を着ていないと中に入れないんです。着てないと入口で上着を貸してくれます」。さすが大人の世界をいろいろ経験されていると感心した…。

 その後、キャバレーという事業形態の衰退により「エムパイヤ」は閉鎖され、リキパレスのあったビルはサウナだけが残った。

「そのサウナも行ったことがありますよ」。大塚さんの興味深い話は加速する。「それは猪木社長に連れられてです。アリ戦の前あたりですから74~75年くらいでしたかね。青山の事務所で仕事をしていて、夕方なると猪木さんが社長室から降りて来きて、私を見つけると“おい、身体、空いているか。行くぞ”って感じで。麻雀の約束があっても、ハイと言わざるを得ません。お供するのは、なぜか、僕だけなんです」

サウナの入口。ここリキレストラン入口だった辺か。

 リキパレスのあったビルは92年に取り壊されるまで、31年間あそこに建っていた。私も83年に取材に行った時、サウナの入口まで行ったが中まで入っていない。その時は「サウナ・フィンランド」という名称だった。

「猪木社長と一緒にサウナに入って、水風呂入って…。なぜ、社長があそこに行くかというと、トレーニングジムが完備しているからですよ。サウナと一緒の料金で利用できます。トレーニング場は、そこそこ広くてダンベルとかべンチプレスとか、ほとんど必要なトレーニング器具が揃っていました。青山から上野毛の道場まで行かずに、身体を動かしたいと思った時にここでトレーニングしていたんですね」。

 なるほど、ここは“燃える闘魂”アントニオ猪木の知られざる秘密基地…第二の練習場だったのだ。日本プロレスの道場は人形町から61年7月にリキパレスに移ってきた。そして64年3月に渡米するまで、ここは猪木にとって青春の汗を流した思い出の地となる。赤坂のリキアパートから道場へ通い詰め、リキパレスでの試合はザッと数えて68回やっている(力道山は42戦のみ)。

66年にリキパレス閉鎖後も、ジムの部分だけを日本プロレスは賃貸で使用していた。東京プロレスから67年4月に猪木は日本プロレスに復帰し、再びここが練習の場となる。カール・ゴッチの指導を受けたのもここである。あらゆる意味で若獅子アントニオ猪木の血涙の詰まったビルといえる。それが新日本になっても、ここでサウナとトレーニング場で汗を流し続けていたとは、さすがに知らなかった!

「僕がサウナから戻って来るのを麻雀メンバーが会社で待ってくれたこともありましたよ。月2回くらいご一緒しましたかね。僕が出張の時は誰がご一緒したかは知れませんが、専用のロッカーもあって、もう常連みたいでしたよ。その後にはよく焼肉屋さんに連れて行ってくれました。あの近くに“精香苑”という店があって、よくそこへ行きましたね。その店はもう無いです。社長はいつも焼肉でしたね。あと西麻布の“十々”の時もありました。そこは今もありますよ」

“十々”ならば私も馬場元子さんに連れて行ってもらったことがある高級焼肉店。すると、ここはBIが愛した焼き肉屋ということになるのか(行ってみてはいかが…)。

それはともあれ、みなさん、いろんな調査情報、深いお話…ありがとうございました。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅