ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第592回】闘魂を偲ぶ散歩へ

 猪木さんのお通夜と葬儀は日時も場所も知っていたけど、「家族葬」ということなので、控えさせてもらった。でも、大塚さんや栗栖さんから、式の様子が写真でポツポツと送られて来たので、スマホの写真の仏壇に向かって手を合わせさせてもらった。四十九日が終わったら、お墓参りに行こうと思う。十和田の蔦温泉の方のお墓ではなく、総持寺の猪木家のお墓に…。前にも書いたけど、私の母方の墓は総持寺にある。それも猪木家のお墓のすぐ近く。自分たちの墓へ行くのには猪木家の墓地の前を歩かないとならない。だから私は子供に頃から母の母が眠る墓参りに行くたびにいつも猪木家のお墓に手を合わせてきた。それは本門寺の清水家の墓参りの時に力道山のお墓に必ず立ち寄るのと同じルーティーンである。時には本門寺と総持寺を梯子墓参することもあった。

総持寺の猪木家の墓所。

総持寺に行くたびに「いつかこのお墓に猪木さんが入る日が来るんだろうなあ」と、その日が来る覚悟をしていた。でも、それが現実のものとなった…。ここには猪木さんの御兄弟とダイアナ夫人との間に出来た長女も眠っているらしい(8歳で小児がんを患って亡くなっている)。なかなか会えなかったパパにこれで再会することが出来るだろう。ここは猪木さんが生まれ育った鶴見の岸谷に近い。私も一度トライしたが、京急の生麦で降りて、岸谷から母校の東台小学校経由して総持寺まで歩いて見るのもいいだろう。さらに中退した寺尾中学も足を伸ばしたいところだ。無許可で学校には入れないけど、不審者扱いされないよう垣根越しの覗くのは可能。周辺の町並みは古いし、隣接する三ツ池公園など自然も多い。この辺ならばブラジルに出発する昭和31年当時の面影を偲ぶことが出来よう。バスで鶴見駅に戻って京浜東北線で蒲田まで行けば、池上は池上線ですぐだ。締めは本門寺の力道山の墓参、そして猪木さんがモデルになった仁王像2体を本殿で拝むことも忘れないようにしたい。これからの季節、寒さも増していくが、蔦温泉も一度は行ってみたいね。奥入瀬や焼山までは行っているが蔦温泉は行ったことがない。八甲田山の雪中行軍は勘弁してほしいが、雪解け頃に温泉と墓参のセットで…是非。

猪木さんがモデルの本門寺の仁王像。

さて、猪木さんのように世界的に著名な選手ではないが、メキシコではメジャーなウンベルト・ガルサが16日に地元のモンテレイで亡くなった。享年85歳。みなさんには、「それ誰?」と言われそうだ。でも私が書かなければ、二度と目に触れることがないレジェンドなので、亡くなった時くらいはちゃんと記しておきたい。新日本に2011年に来日して東京ドームでライガーと組んだエクトール・ガルサの父親と言えばわかる人が少しいるかなと思う。エクトールは13年に肺がんで亡くなっている(享年43)。その父のウンベルトは1937年2月9日、モンテレイ出身。日本プロレスに1973年2月に初来日して吉村道明の引退試合を務めたルーベン・フアレスと組んでエクスプレソ・デル・ノルテ(北部急行)という技巧派チームで鳴らした。1968年2月25日のアレナ・コリセオ・デ・モンテレイで、カルロフ・ラガルデを破ってナショナル・ミドル級王者になったのが最高位。それよりもウンベルトは世界的な功績をプロレス界に残している。あのトペ・スイシーダは、この人が発明したのだ。一時はブラック・シャドー説が持ち上がっていたが、今ではウンベルト・ガルサこそが最初にリングから場外に飛び出して相手にアタックした“ファーストペンギン”と認識されているのだ。

在りし日のウンベルト・ガルサ。

少し報告が遅れてしまったが、ラセール(ホルヘ・ベガ・オレヘル)も8月29日に亡くなっている。ミチョアカン出身で私と同じ歳だから、享年66。1976年にデビューして80年代半ばにロビンフッド、ダニー・ボーイとロス・アルケロス・デル・エスパシオという「宇宙弓兵トリオ」で鳴らした飛び技の名手だ。イルマ・ゴンサレスの娘の美人戦士イルマ・アギラールと結婚。91年9月にユニバに初来日している。「そんな選手いったっけ…」と言われるかもしれないが、この人も日本マットに微々ながら爪痕を残している。あの“欽ちゃんジャンプ”を最初にやったのは、この男である。まるでケンドーの特技みたいになっているけど、最初にやったのはラセールである。つまりこの人も“ファーストペンギン”だったわけだ。

UWA世界ライト級王者にもにったラセール。

さて、3週前くらいに書いたように15日土曜日、アレナ・シウダ・デ・メヒコでビジャノ4号vsペンタゴン・ジュニアのマスカラ戦が行われ、予想通り敗れたクアルト(4号)がマスクを脱いだ。本名はトマス・ディアス・メンドーサ。私と同じ名前なのでお互いに“同名さん”を意味する「トカヨ」と呼び合っている。あのレイ・メンドーサの息子で唯一現役だったトカヨは39年間被っていたマスクを脱いだ。1~3号はすでに死亡していて、1つ上の兄貴の5号は引退して歯医者さんをしている。

ビジャノ4号はマスクを取られた。

4号&5号が一緒に初来日したのは1988年4月の新日本『スーパーファイトシリーズ』。あの時は猪木さんも元気だった。いや、シリーズ途中欠場した! 沖縄で藤波さんが飛龍革命の狼煙をあげた翌日にランニング中、右足甲を骨折してシリーズ半ばで戦線を離脱したのだ。あれは一体、何だったんだと思う…。ビジャノスも何と22戦全敗…あれも何だったんだと思う。彼らはあのツアーで猪木さんの戦う姿に魅せられていた。「一度でいいから試合したかったのに…。でも、途中でいなくなっちゃった」と有明コロシアムで会った時に残念がっていた。それはファンも一緒だろう…。飛龍革命恐るべしだが、それよりもあの猪木さんの去り際のスピードには脱帽だった。

こんな取り留めのない話でも、今は何か別の事を書こうとしても、自然と猪木さんに吸い寄せられていく…当分は仕方ないかもしれない。それからまさか、こんな事態になろうとは思わずに企画した1対3のトークショー…それも18日後に迫って来た。ここは自然体で臨みましょう。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅