先週は新潟県長岡市の山間部にある山古志闘牛場について書いた。長岡市と言えば、やっぱり長岡市厚生会館。忘れられない体育館だ。花火大会で有名な長岡市は新潟県の中央部に位置し、県第2位の人口を誇る。この長岡市厚生会館は、今年4月に閉館した新潟市体育館に負けないほど多くの名勝負が繰り広げられた古戦場である。実際、ここは長岡城(本丸は長岡駅あたりで消滅)の城内で、二の丸付近に厚生会館があった(2009年1月に閉鎖後、解体)。城内の体育館といえば愛知県体育館、山形県体育館、駿府会館、宮城県スポーツセンターなどがあったが、城跡自体が完全消滅し、更地になった跡に建った体育館はここだけだろう。長岡駅から徒歩5分、アーケードに入った途端にいきなり現れる体育館で、雨の日も濡れずに行ける超至便な立地。すぐに行けて、すぐに帰れる最高の体育館だった。

長岡城は1616年の築城の平城。1868年の戊辰戦争における北越戦争で全焼し、1889年に本丸に長岡駅ができ、勘定所のあった二の丸には宝田石油(現在の新日本石油、ENEOS)の本社があった。かつて新潟は石油の産地で、採掘と精製をしていた。同社が本社を東京に移すと跡地は公園になるが、大正になって公会堂が建ち、1945年8月の長岡空襲で半焼する。そして57年に公会堂は取り壊され、翌58年11月に厚生年金の還元融資制度を利用して鉄筋3階建ての立派な体育施設が完成した(延床面積5418㎡)。新潟市体育館(延床面積5994㎡)ができる2年前のことである。床面積に大差はない。そこそこ大きな体育館だ。

プロレスが初めて長岡に来たのは厚生会館の完成から半年後、59年6月23日。『第1回ワールドリーグ戦』直後の『プロレス夏の国際選抜戦』だ。開場は午後4時なのに正午頃から長蛇の行列ができて警察が出場したと、地元の『新潟日報』に報じられている。メインは力道山&遠藤幸吉vsジェス・オルテガ&ミスター・アトミックであった。68年の『第10回ワールドリーグ戦』から開幕戦を東京で終えた後すぐ、4年連続で長岡へ寄るようになる。上野から上越本線特急「とき」で約3時間、とても行きやすい立地にあるからであろう。長岡と三条は約25kmの距離…同じ中越なので、ほぼジャイアント馬場のテリトリーと言っていい。三条市厚生福祉会館は小さいので、大きい長岡を使うケースが多い。全日本になって最初に長岡を使ったのは73年4月19日、『第1回チャンピオン・カーニバル』第20戦。準決勝で馬場はキング・イヤウケアを破っている。逆に新日本は中越入りに慎重を期した。最初にアタックしたのはリングアナから営業に志願したばかりの大塚直樹氏。74年の『チャンピオン・カーニバル』を阻止して『第1回ワールドリーグ戦』に長岡を差し込んだのだ。「馬場さんのご当地に近いので気合が入りましたよ。長岡でもらい事故をしたんです。相手が酒を飲んでいたんで、修理代とチケット30枚買ってもらいました(笑)」と大塚氏は当時のエピソードを教えてくれた。

それから毎年、全日本と新日本は長岡城を舞台に北越戦争のような激戦を展開する(馬場が長岡藩で、猪木は薩摩藩か)。75年12月16日、全日本は『オープン選手権』を長岡で開催。馬場&ヒロ・マツダvsドリー・ファンク・ジュニア&ジャンボ鶴田の他、公式戦ではアブドーラ・ザ・ブッチャーvsラッシャー木村、ザ・デストロイヤーvsマイティ井上、ドン・レオ・ジョナサンvsグレート草津、ホースト・ホフマンvsディック・マードックなど好カードが組まれた。それに対して新日本は77年の『ゴールデン・ファイト・シリーズ』をここで開幕させ、アントニオ猪木&坂口征二vsタイガー・ジェット・シン&上田馬之助をテレビマッチで組む。山口百恵がここでコンサートをしたのはこの頃だろうか…。全日本は77年と81年の『チャンピオン・カーニバル』では馬場vsブッチャーの公式戦を組むあたり、全日本が長岡をいかに重要視しているかがわかる。79年10月22日には鶴田vsクラッシャー・ブラックウェルのUNヘビー級選手権も組まれる。これが長岡で初の選手権試合だった。

そして82年6月4日にはリック・フレアーvsリッキー・スティムボートのNWA世界ヘビー級選手権を、84年4月22日にはスタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディvsファンクスという黄金カードを投入すると、新日本と大きく差を広げ、甲信越の最重要拠点となっていく。私の記憶だと、ここのファンのプロレスを見る目が肥えていたと思う。だから中途半端なカードは組めず、いい試合への反応も良かった。客が沸けば自然と選手の熱も入る。

『チャンピオン・カーニバル』では91年に三沢光晴vs田上明、93年には同一カードと、ハンセンvsテリー・ゴディの公式戦が組まれた。95年10月7日には小川良成vsロブ・バンダムの世界ジュニアライトヘビー級選手権があったし、『チャンピオン・カーニバル』の公式戦では97年に小橋健太が三沢から初勝利している。そのセミではハンセンがスティーブ・ウイリアムスに引き分けている。さらに98年大会ではメインが小橋vs川田、セミが三沢vs秋山という優勝を左右する公式戦が次々に組まれた。馬場のお膝元というだけでなく、東京から行き帰り可能な微妙な距離感がテレビ中継をするのにもベストの立地だったようだ。

58年竣工というのは、全国的にもかなり古い部類の体育館だったといえる。旧・大阪府立体育会館が52年で、蔵前国技館が54年、駿府会館が57年だから、ここはかなり頑張って使い続けた体育館だと言える。確かに2000年代に取材に行った時には老朽化が進み、壁や階段などあちこちがボロボロになっていた。面白いのは2階席へ行くのにアリーナから梯子を使うことだった。それが古風でよかった。蒲鉾屋根は、柱を使わずに広い空間を確保するためだが、緩いカーブではなく急斜面にしたのは豪雪地帯なので自然に雪が落ちるようにするためだった。
(写真7)

長岡からの最終の新幹線は22時まである。新幹線だと東京までの所要時間は1時間40分。在来線の時代と比べると半分の時間だ…速い。翌日がオフか首都圏での試合ならば、バスに乗らず新幹線で帰京するトップ選手も多い。ここは浜松~東京と距離的にも似た感じだ(だから昔、力道山は夜行で帰京してしまったのだろう…)。だから長岡のホームで選手たちと出くわすこともしばしばあった。私は長岡へ取材に行くたびに駅構内の酒屋さんで越後の名酒をお土産に買っていた。ある大会の帰り…その酒屋さんで「あれっ、清水さんじゃない?」と声を掛けられた。声の主は三遊亭楽太郎(後の6代目円楽)師匠だった。
「えっ、師匠、何で長岡にいるの?」
「いや、こっちで演芸会があってね」
「なんだ、ここでプロレスがあったんだ。観たかったなあ」
と、帰りはお土産のお酒を開けて、新幹線で一緒に帰ったのを思い出す。
でも、ここは日帰りなので、週刊の時代には編集部に戻って徹夜で仕事が待っている。
だから深酒はできない。そういう意味で新幹線ができて便利になったといわれる長岡は、私たちには“行きはよいよい、帰りは怖い”…結果的に嬉しくない出張だった…。今回の旅で初めて長岡に泊まった。駅前東口の安ホテルだった。厚生会館のあった駅の西口の風景は昔と丸っきり違っていた。老朽化した長岡市厚生会館は09年に閉鎖され、解体後、12年4月に市役所、市民ホール、5000人収容のアリーナが一体となった隈研吾デザインの「アオーレ長岡」が聳え立って建っていた。
“昭和の長岡はもうここにはないな”と呟き、私はアオーレの写真を撮ることなく背を向けた。