ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第547回】銀幕の巨人(1)

 先週はモンちゃんこと門馬忠雄さんの馬場本のお話を書いたので、今週も馬場もので行こうかなと思っていたら、塩梅よく北区のドクターFこと深江正人さんが面白いネタを提供してくれた。馬場さんの映画出演についてである。マニアの中では知られてはいるものの、意外と観たという人が少ないのが1963年7月13日に東宝系で公開された『喜劇 駅前茶釜』。有名な駅前シリーズの4作目だ。森繁久彌、伴淳三郎、フランキー堺らが主役の人気シリーズで、前作には王貞治選手(実名で)がゲスト出演しており、この回はジャイアント馬場がゲストで迎えられた。

『喜劇 駅前茶釜』の一シーン。馬場がデカくて若い。

 63年といえば、馬場は1回目の海外遠征から3月に帰国したばかりのスーパールーキー。3月17日に帰国して、ワールドリーグの開幕が23日だから、この期間に撮ったのだろうか。だとしたならアメリカ修行で身に付けた技は実戦のリングより先にここで放たれたことになる。シリーズは5月24日の東京体育館までほとんど休みなしなので、その後のオフに入ってから撮ったのか。それだと編集作業を考えると公開まで、ほとんど時間がない。とにかくスケジュール取りが大変だったと思われる。当然、力道山の承諾があっての出演で、馬場が帰国する前にすでに出演は決定していたのであろう。

 馬場は小原正平という村人役で出演する(正平の名だけは残された)。そして村祭りに飾られる茶釜を強奪しようとする悪人たちを相手に大立ち回りをする。そのチンピラ役に選ばれたのが駒厚秀、北沢幹之、星野勘太郎、大熊元司、そして吉原功の5人。なかなか興味深いキャティングだ。

「アクション!」。最初に大熊が馬場に襲い掛かると、馬場は豪快なすくい投げで熊さんを投げ飛ばす。続いて飛び込む星野にヤシの実割り。この頃の馬場のヤシの実割りの足の上げ方は半端でない。バレリーナか星飛雄馬のように自分の頭より高く足先を上げる。これを見ると痛め技ではなく「必殺技」といえる。小兵の星野はつま先立ちしないと馬場の腰位置に顔が来ない。ドカーン、星野が吹っ飛ぶ。

そして、後の国際プロレスの社長の吉原の胸板にドカーンと16文キック。吉原はすごい大きな受け身を取った。そして今度は北沢にボディスラム。かなり大きな音がナマで入る。最後は馬場がフランキー堺を抱えてドロップキックをさせ、それが駒にクリーンヒット。かくしてチンピラたちは退治されたのである。この大活躍に感激した横山道代が馬場に抱きついて頬っぺたにキス。馬場がびっくりして尻もちをつくと、せっかく守ったはずの大事な茶釜を壊してしまうという笑えるオチ。

この映画に出演していて今も健在なのは北沢さんだけ。ちょうど昨日、北沢さんにお会いしたので、この撮影のことをお聞きした。

「駅前茶釜ですか…憶えていますよ。あれを撮ったのはシリーズの合間だったと思いますけど、いつだったかは…。撮ったのは成城の東宝の撮影所でしたよ。拘束時間も長くて撮影は大変でした。久松静児って監督がうるさい人で、何度も何度も撮り直しさせられましたよ。吉原さんも、駒さんも豪快な受け身をとっていましたね。森繁さんはいい人でしたね。あの久松って監督から僕に再度出演依頼が来ましたけど、断りました。芸能の仕事は性に合わないです。僕はレスラーの中で『チャンピオン太』に最多出演しています。力道山先生よりも、猪木さんや小鹿、星野もレススラーはみんな出演したけど、誰よりも私が多いです。デビュー前でしたね。覆面被らされたり、毎回いろんな役をやらされましたね。あれは映画でなくてテレビドラマでしたけど、どっちにしても芸能の仕事は嫌だと思いました」

 それはともかくとして63年当時の若手・中堅選手の動画は貴重。現役時代の吉原さんなんか超レアといえる。それもカラーなので、実に新鮮。DVDも出ているので是非観てみてください。

力道山はこの映画の公開の5ヵ月後に他界、2年半後に北沢さんは東プロへ飛び出し、3年半後に吉原さんは国プロを旗揚げ、9年後に大熊さんと駒さんは全日本で馬場の懐刀となり、10年後に星野さんはメキシコ、ロス経由で新日本に入る。プロレスラーの運命とはわからないものである。

『エル・サントvsロス・サンビエス』(1961年作)。

 舞台から映画へ…1900年代半ばより映画は娯楽の花形となる。それは世界共通。メキシコでも同じだ。あの国民的英雄エル・サントは生涯54本の映画に主演した。79年、私はメキシコでプロレスとは無縁の一般家庭にお邪魔したら、そこの家族全員から「えっ、エル・サントってルチャドールだったの?ずっと映画俳優だと思っていた」という答えが返って来た。メキシコの一般人の認識は「映画>ルチャ・リブレ」。映画こそが娯楽の王道で、映画館の前はいつも人だかりであった。それからルチャ・リブレは国技ではないと思った。逆にプロレスは映画や芸能をもっと利用すべきだったと思う。

全日本時代に馬場さんは『007私を愛したスパイ』の出演を断っている。これは77年12月に日本で公開されたロジャー・ムーア主役のシリーズ第10作(英米では77年7月公開)。これの「殺し屋ジョーズ」という役でオファーが来たのに断ったためにリチャード・キール(218センチの俳優)に役を持って行かれてしまった。

何と言っても世界の007シリーズだ。『007ゴールドフィンガー』(64年)でハロルド坂田がオッドジョブ役で大ブレイクしたり、67年の『007は二度死ぬ』で浜美枝が日本人初のボンドガールになった。それは後々まで語り継がれた。ジャイアント馬場は大きな鮫、いや大きな魚の逃したと思う。

007に出演したハロルド坂田は一躍人気者に。

76年のアリ戦で世界的な知名度を得たアントニオ猪木に対して、翌年007に出演・公開されていれば逆転の目もあったのに…。「今さらヒールになれるか」「俺を怪物扱いするな」と言ったか言わないか知らないけど…殺し屋ジョーズはなかなかインパクトあったし、超もったいないキャンセルだったと思う。

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