悲しいニュースが海の向こうから届いた。かつてゴングのメキシコ通信員をしていた三浦勝夫さんが、今月7日に米国サンディエゴで癌のために亡くなったというニュースである。『ボクシング・ビート』誌(フィットネススポーツ)の米国通信員として活躍しているだろうことは知っていたのだが……。一昨年、「西海岸からの風」というボクシングネタの配信コラムを読んだ私は、「このライターはしっかり現地取材している。データも細かいし、着眼点もいいな」と感心した。その文末に三浦さんの名前とプロフィールが載っていて、「おおっ、三浦さんか!」と驚く一方、久しぶりに会いたい!と思った。同コラムは2012年から始まっていたらしく、不定期ながら頻繁に配信されていて、私はすっかり愛読者になっていた。でも、3月30日の配信でピタッと止まって更新がない。井上尚弥vs中谷潤人の世紀の一戦(5月2日=東京ドーム)も間近だというのに、「どうしたのかなあ」と思っていたら、まさかまさかである。

ゴングはメキシコマットの試合写真を随時手に入れることに遅れをとっていた。ベースボール・マガジン社には横井清人という現地通信員がいたのに対して、ゴングには誰もいなかった。そこで救世主になったのが、田中幸彦くん(通称ペペ田中)。ファンクラブ時代の後輩で、彼が1981年にメキシコ国立自治大学(UNAM)に留学した時に通信員になってくれた。小回りが利くし、押しも強く、カメラの腕もあった。その彼が82年6月に卒業して帰国する際に、通信員の後継者をスカウトしてくれた。それが三浦さんだった。三浦さんもUNAMに籍を置いており、ボクシングが大好きだったことで、ゴングとのコネクションができるのが嬉しかったようだ。日本スポーツ出版社は、別冊ゴングのようにボクシング専門誌『ワールド・ボクシング』(現在の「ボクシング・ビート」誌の前身)を82年5月号で創刊する。でも三浦さんには、ボクシングよりも私の指示でルチャの仕事をたくさんしてもらった。

最初は写真が上手くなかったけど、見る見るうちに腕を上げて、びっくりするような写真を撮るようになった。とにかくいろんなアレナで取材して行ってもらったし、EMLLとUWAの事務所には頻繁に出入りして情報を掴む一方、連載「メキシカン家庭訪問シリーズ」でもペロ・アグアヨ、エル・サタニコ、ラ・フィエラ&ジェリー・エストラーダらエストレージャたちのマイホームをたくさん取材してくれた。彼は主要会場の重要な試合に必ず足を運び、半月に一回のペースでフィルムと細かいレポートを送ってくれた。結果的に、私が最初に三浦勝夫という人間を取材記者として鍛えたことになるのだが、彼は根っから取材好きで、私の細かい指示にも的確に応えてくれた。

その頃、月刊ゴングで中綴じカラーで「世界レスラー・カラー名鑑ベスト1000」を始めたら、エストレージャたちばかり出しているとネタがすぐに尽きてしまう。現役1000人はすごい数だ。竹内さんに「今月はメキシコ人15名出してね」と言われ、私はそのニーズに応えなければならない。だから三浦さんに、アレナ・メヒコやコリセオ、エル・トレオの前座や中堅だけでなく、ナウカルパンやアパトラコなどの新人選手たちにも手を広げて取材してもらった。彼はそういう中堅やホープたちのポーズ写真を撮るだけでなく、彼ら一人一人からプロフィールを聞き出し、レポート用紙に書いて送ってくれたのだ。その中には、後にオクタゴンになるアメナサ・エレガンテ、マスカラ・サグラーダになるエカトンベ、ライガーの師匠レオン・チノ、ウニベルソ・ドスミルとなるエスペシアル、シルバー・キング、エミリオ・チャレス・ジュニアなど、後のエストレージャたちがいっぱいいる。この膨大な三浦レポートは捨てられず、今も自宅に大事に保管してある。

つまり私が“ドクトル・ルチャ”になれたのは、ペペや三浦さんが送ってくれたものから受けた知識の蓄積が根底にあったことなので、手足として働いてくれた彼らには感謝しかない。84年2月に私が妻とメキシコで結婚式を挙げる際にも、三浦さんにはお世話になった。その時に初めて三浦さんとお会いする。私とは同じ歳で、物静かな人柄だったが、とても気が合った。その年に週刊ゴングが創刊し、連載「ルチャ・リブレ広場」は三浦さんの写真とメモから私が原稿にしたもので、他にもビッグマッチは別項で独立したカラーグラビアとして掲載した。それにより、“メキシコに強いゴング”は他誌を置き去りにする。

86年4月にエル・ソリタリオが亡くなった時、私に電話してくれたのは三浦さんだった。彼は私とソリの仲をよく知っていたからだ。あの朝の電話は今も忘れない。三浦さんの報告を受けて、私は電話を握り締めて泣いた……。今からちょうど40年前の話である。今回、その後に彼が書いた続報レポートを発見した。それはソリの友人ビジャノ3号への取材メモであった。
「ソリタリオはヌエボ・ラレドで行われたフィッシュマン&フングラ・ネグラ戦で腰を痛めた。パートナーはゲレーロ・アステカ。私は翌日モンテレイで試合だった。そこで合流する予定だったが彼は来なかった。その足で私はヌエボ・ラレドのホテルまで彼に会いに行ったけど、彼はまったく動けない状態だったので驚いた。モンテレイの病院へ転院してレントゲン検査を受けたが、腰だけでなく、肩と肘も骨折していることがわかった。心臓のほうはコミッションでチェックしたばかりなのでまったく異常なしということだったのに……手術中の事故死と聞いて信じられなかった。何物にも代えがたい親友を失ってとても悲しいよ。偉大な選手を失って、残された我々の責任は非常に大きい」
これはゴングの誌面では未使用で、40年間ウチに眠っていたもの。ソリばかりかビジャノも三浦さんももういない……。

パナマへ飛んでの帝王サンドカンと石の拳ロベルト・デュランの家庭訪問は、彼の大仕事の一つだと思う。メキシコでの彼の取材はルチャが9でボクシングは1くらいだったが、このパナマでのデュラン直撃取材のスクープで、『ワールド・ボクシング』の舟木昭太郎編集長は三浦さんの取材力を認めざるを得なくなったのだ。特にあの時代のルチャの細かい取材活動が、数十年後の“キャッチ三浦”の愛称でボクシング、サッカー、MLBなどの現地取材で名を成す原点になったのであろうことは間違いあるまい。

この後、高橋益男さんというメキシコ在住の日本人に通信員のバトンを渡し、三浦氏は日本に帰ってきた。そしてゴング編集部でアルバイトをして、しばらく私の席の隣で働いていたが、日本では陸に上がった河童……。メキシコにいた時のように私から頼める仕事があまりなかったのは心が痛かったが、『ワールド・ボクシング』誌のメイン執筆者だった前田衷氏(「ボクシング・マガジン」初代編集長)に師事したのは大収穫だったと思う。スペイン語の堪能で取材好きな三浦さんは、メヒコにいてこそ本領が発揮される。彼はメヒコに戻ってメヒカーナと結婚し、現地での取材活動を再開。ルチャでは初期のAAAの取材などをしてくれた。ただボクシング界においてメキシカンは相変わらずの強さを誇っていたが、ビッグショーの舞台は80年代からラスベガスに移っていて、メキシコ国内での濃厚な取材が難しくなっていた。90年代末だったか、三浦さんはメヒコを出てラスベガスに移り住んだ(後にサンディエゴに引っ越す)。アメリカはプロスポーツとエンターテインメントの国……三浦さんはフリオ・セサール・チャベス、フロイド・メイウェザー、ロイ・ジョーンズ、カネロ・アルバレスなどスーパースターたちを取材している。さらにはペドロ・マルティネス、アルバート・プホールズらMLBのスーパーレジェンドたちのインタビューを敢行。ドミニカ人の彼らを安心させたのは、スペイン語が堪能だったからであろう。ラテン系が主流の米在住ボクサーとMLBスター選手を取材するには、スペイン語は三浦さんの大きな武器となったはずだ。82年にスペル・ボリド、ソンブラ・ポブラーノといった無名ルチャドールを場末のアレナでこつこつ取材していた雇われ日本人記者が、無敵のメイウェザーや本塁打王のプホールズの伝説に辿り着いたのだから、凄いとしか言いようがない。ゴングが潰れて前田衷さんとも疎遠になってしまったことで、三浦さんとの連絡も取れなくなっていたが、あのコラムを読んだのを機に何とか連絡を取りたいと思った。それだけに今回の訃報は残念で仕方ない。三浦さんは大谷翔平と同じ岩手県奥州市出身。どちらも最終的に海を渡り、カリフォルニアで名を成した。三浦さんにとって大谷翔平は郷土の誇りであろう。

井上尚弥vs中谷潤人が観られなかったことが、長くボクシングの仕事に携わってきて一番の無念だったと思う。さる3月19日配信の井上と中谷両雄の調整過程を記したコラムを今、読み返すと虚しい……。次は彼の最終予想の記事が配信されると楽しみにしていたのに……。5・2東京ドーム決戦当日は、天国から三浦さんを呼び寄せて隣で一緒に観戦したいと思う。彼に「Descanse en Paz」(安らかにお眠りください)と声を掛けるのは、その試合後だ。