先週、49年ぶりに流氷を観にオホーツク海まで行った話を書き、いろんな方からお褒めの言葉を頂いた。美しいものには、誰もが感動するのであろう。私は流氷を観るために、網走湖畔のホテルに2泊してそこを拠点にした。
今回、太平洋を望む日高の馬産地からオホーツクへ向かうため、片道約360キロを「ブルーデモン号」でひたすら走った。マイナス11℃、猛吹雪の日勝峠を越え、大雪原の帯広平野から北上し、松山千春を聴きながら故郷・足寄へ。そこからさらに山間部を北上して辿り着いたのが陸別町だ。
ここへ来たのは3度目だが、冬に来たのは初めてである。かつて十勝平野の池田町から北見市へ通じるJR池北線があり、陸別駅はその中間地点だった。1989年に第三セクター「北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線」に引き継がれるも、2006年に廃線となる。この駅で気動車(ディーゼル列車)の運転体験が出来ると知ったのは、2021年5月にここを訪れた時だ。「今度こそ列車を運転しに来たい」と思って再訪したが、あまりの寒さにそれどころではなかった。

そう、この陸別は「日本一寒い町」なのだ。陸別で観測された最低気温は、2000年1月27日のマイナス33.2℃(1位)、1984年2月7日のマイナス33.1℃(2位)、1978年2月17日のマイナス32.6℃(3位)……。今年も1月5日にマイナス27.1℃を観測している。
私が駅前(現・道の駅)に着いた2月6日午後3時はマイナス4℃。風が強かったので体感温度はかなり低かったはずだ。車から数分も出ていられないほどの恐ろしい寒さだった。だからマイナス30℃なんてどんな世界なのか、寒がりの私にはとても想像がつかない。
日本の史上最低気温は1902年1月25日の旭川でのマイナス41.0℃だといわれてきたが、私が昨年6月に訪れた幌加内町母子里(もしり)では、1978年2月17日にマイナス41.2℃の新記録を観測しており、クリスタルパークには記念のモニュメントが建っていた。

陸別のマイナス33.2℃は最低気温ランキングのベスト20にも入っていないらしいが、なぜ「日本一寒い」と言い切るのか。それは、1月の最低気温の平均値がマイナス19.6℃と他のどの観測地より低く、12月から2月の冬季平均値も最も低いからだという。つまり、単発の冷え込みではなく「長~く、寒~い町」だということらしい。
また2000年から3度、オーロラもここで観測されている。陸別は内陸部の海抜500mほどの高原盆地で、晴天が多く放射冷却が強いため、寒くなる条件が揃っているようだ。

今年1月時点での人口は2038人。高校もないこの小さな町で、かつてプロレスの興行が行われたのをご存知だろうか。それも「冬」に、である。
国際プロレス1975年『ビッグ・ウィンター・シリーズ』第14戦、11月19日の陸別町スポーツセンター大会がそれだ。前日が日高管内の静内町(現・新ひだか町)だから、私とほぼ同じ距離を、高速道路もない時代にここまで移動してきたことになる。それだけでも凄いことだと思う。
しかも、陸別のメインイベントは何とタイトルマッチであった。ピエール・マーチンが保持するUSヘビー級王座に、マイティ井上が挑戦しているのだ。結果は2-1でマーチンの防衛。それにしても、予告もなく突然、初来日の選手が持ってきた怪しいベルトの防衛戦を意味もなくやらせるとは……さすが国際プロレス、前例がない。
もちろん、マスコミ不在の地での試合だったため写真も残っていない。井上さんは生前、こう語っていた。
「やったような記憶が薄っすらありますよ。マーチンが草津のおっさん(グレート草津)にごり押しして、自分の持ってきたベルトの防衛戦をさせてもらったんでしょうね。草津さんも仕方なく、目立たない陸別でメインをやらせたんじゃないですか。それにしても陸別にUSなんて無関係でしょ(笑)。挑戦させられた私がいい迷惑ですよ」
この頃、マーチンは地元のモントリオール地区やプエルトリコを行き来していた。このUS王座とやらが何物なのかは不明だ。開幕戦恒例の外国人選手のポーズ写真撮影の際、ザ・コンバット(マイク・マーテル)と一緒に撮影に臨んでいるが、USベルトは巻いていない。普通、ここでベルトを披露するものなのだが……。
開幕第2戦(11月3日)の後楽園ホールで、コンバットは草津&井上組からIWA世界タッグを奪取している。まさかマーチンは、IWA世界タッグのベルトを巻いて陸別でUSの防衛戦をやった……なんてことはないだろうが。肝心のUSベルトの証拠写真がないのだから、疑いたくもなる。陸別の「冷凍オールドファン」を解凍して、真実を聞いてみたいものだ。

さて、陸別のセミファイナルは木村&草津vsマイク・マーテル&サージ・デュモン。他にもアニマル浜口vsキング・タイガー、ゴードン・アイビーvs田中忠治などが組まれていた。また地方では連日同じカードだったが、ビッキー・ウィリアムスvsレイ・ラニカイという米国トップ女子の贅沢なカードも披露されている。
それにしても11月の半ば過ぎ、陸別は相当「しばれた」であろう。マーチンやマーテルらカナダ勢は寒さに強かっただろうし、彼らならカナダのどこかでオーロラ(ノーザンライト)も観ていたかもしれない。
主催者発表の観衆は3500人。この年の陸別の人口は5474人……もし実数ならば、町民の約64%が来場していた計算になる。地元の人に「50年前にあったスポーツセンターはどこですか?」と尋ねたが、「もうないですよ」と言われた。やはりそうか……。

プロレスの地方巡業では、1950年代から80年代にかけて、学校の校庭や広場、相撲場、野球場、神社などでの「野外試合」がよくあった。私も随分と野外の試合を観てきた。天敵は雨だが、天幕に囲まれた野外試合は、独特の「田舎感」があって風情があった。田舎に限らず、東京都下や神奈川、千葉、埼玉でもよく行われていたものだ。
通常、野外興行は春から秋にかけて体育館のない市町村で行うものだ。それなのに、季節を無視して北海道の冬に強行した例が、少し調べただけで2回あった。
一つは1966年10月21日、日本プロレス『ダイヤモンド・シリーズ』第18戦の函館市千代ヶ岱(ちよがだい)球場。市民体育館ができる前の函館や帯広は、球場を使用していたのだ。10月末は内地(本州)では秋だが、北海道はもう初冬。大雪山では9月半ばに雪が降る。10月下旬の屋外は、相当寒かったはずだ。 ちなみにメインは、馬場&吉村&大木vsゴリラ・モンスーン&フリッツ・フォン・ゲーリング&マウンテン・カノン。セミがボブ・ボイヤーvs芳の里だった。

もう一つの「北海道・冬の野外興行」は、以前にも触れた国際プロレス1972年11月3日、『ビッグ・ウィンター・シリーズ』第4戦の羅臼町小学校広場である。試合開始は18時30分。これは間違いなく「しばれた」はずだ。
昨年夏、ヒグマの件で話題になった羅臼岳の初冠雪は10月9日であった。例年10月初旬には雪が降る。私が2021年5月に訪れた際も、町に雪が降り、知床横断道路が閉鎖された。5月の半ばだというのに。

羅臼は寒い。ここで11月3日に野外プロレスをやるなんて、それ自体がデスマッチである。 その日のメインに出た井上さんに当時のことを聞くと、「試合している時よりも、コーナーで待機している時が辛かった。風が冷たくて試合をするような状況じゃなかったね。もしかしたら逆取りしたかもしれない……。試合後、走って宿に戻って温泉に飛び込んだんですよ」と笑っていた。
メインは小林&井上&寺西vsレッド・バスチェン&バディ・オースチン&マリオ・ミラノ。セミが草津vsブル・バリンスキー。その下が田中忠治vsホセ・アローヨ……。なかなかのメンバーが最果ての地まで来ていたものだ。イタリア生まれベネズエラ育ちのマリオ・ミラノや、スペイン人のアローヨなどは、羅臼の寒さが身にこたえたであろう。寒さに強い地元客だってしんどかったはずだ。
主催者発表の観衆は4000人。現在の羅臼の人口は4149人。1970年には今の倍近い人口がいたが、初のプロレス興行とはいえ、町民の半分が来たとは思えない。ただ、1981年8月の「国際プロレス・ラストマッチ」の際の発表が1100人だから、この72年の4000人は多少の誇張があるにせよ、寒空の下、かなりの観客が詰めかけたであろうことは想像に難くない。
1981年ではなく、子供の頃に「72年の国際プロレス」を観たという、寒さに強いプロレス好きのご老人がもしご存命だったら、ぜひお会いしてみたいものだ。