またメキシコから訃報が届いた。現地時間7日、スコルピオ・ジュニア(ラファエル・フアン・ヌニェス)が亡くなった。死因は不明だが私より10歳下…享年58歳。若いのに、何で。彼の父親は1981年夏に新日本でタイガーマスクと3度シングル対決したスコルピオ(元UWA世界ヘビー級王者。2010年没)。その長男のジュニアは1987年にルードとしてデビューし、91年11月にユニバーサルに初来日(ユニバには6度)。92年にはエル・トレオで亀空手トルトギージョス・カラテカス1号(ロッキー・サンタナ)とブラック・スコルピオ(2コールド・スコーピオン)のマスクを剥いだ。94年1月の新日本にはレッド・スコーピオンの名で来日してライガーと戦っている。
95年1月にUWAを退団してプロメル経由で11月にCMLL入り。98年7月に『聖者伝説トーナメント』でイホ・デル・サントを決勝で破って優勝してブレイク。99年3月19日のアレナ・メヒコでベスティア・サルバヘと組んでサント&ネグロ・カサスに敗れてマスクを取られる。普通の選手ならばここまで萎んで行くのだが、スコルピオ・ジュニアはここから父譲りの強面(こわもて)が武器となる。同じブ男のベスティアと一緒に色男ショッカーと組んでロス・グアポス(イケメン軍)を結成。テレビ中継の最盛期にリング外のプロモやコントでも大いに茶の間を盛り上げた。2006年にはAAAに電撃移籍をしてロス・グアポスVIPを結成するなど、活躍機会が多かったが、08年にフリーになってからはインディーを転々としていた。最後にラファエルに会ったのは2017年8月。ルチャEXPOを主催するクリスチャン・シメット弁護士の自宅だった。「いま俺はテピート(有名なスラム街)で自動車修理をしながら、時たま声が掛かると試合をしているよ」と父譲りのガラガラ声で明るくそう言った。ルチャドールにしては珍しい大学出身で、頭の回転も早い。デビュー前からボディビルで鍛えていた身体は厚みがあって頑丈。それが売り物でマスカラスのプランチャも率先して受けていたのに…再会した時の彼はかなり萎んでいたのが気になった…。練習不足かステロイドとかの後遺症かなあ。日本ではユニバ時代のバイプレイヤーというイメージが強いが、90年代後半から00年初頭にかけてのスコルピオ・ジュニアは親父の全盛期を超えていたかもしれない。その期間をまだ存命の父親に見せられたのは、親孝行な息子だったと思う。こうしてラファエルの足跡を振り返ると、UWA世界トリオやCMLL世界タッグは獲ったが、結局、シングルのメジャータイトルは手に出来なかった。でも、分類するならば彼は間違いなくエストレージャであった。とってもいい奴だった。ラファエルのご冥福をお祈りしたい。
さて先週の土曜日は田中敬子さんのご招待を受けて帝国ホテルでの『力道山生誕100周年記念パーティー』に出席させていただいた。プロレスラーOBでは直弟子の北沢さん、小鹿さんが…小橋さん、健介さん、北斗さん、現役では藤波選手が、それと新間寿氏が列席。球界からは王貞治さん、張本功さん、江本孟紀さんが来賓として来られてました。私の円卓には矢田亜希子さんがいて、力道山夫人の捧げる曲を披露。冒頭、司会者が「本日の様子はSNSに上げないでください」なんて言うから、ここではあえてパーティーの写真はアップしません。でも、引き出物でいただいた清酒だけはお見せしましょう。
生誕100年か…。寿命が延びて100歳時代とか言うけど、男で100歳を超えるというのはなかなか大変(日本人男子の平均寿命は79.6歳)。私の母は99歳。来年5月で100になる。女性で100は珍しくなくなった(女子の平均寿命は86.3歳)。83歳になる敬子さんは本当にお若いと思った。私は先日、メキシコでドレル・ディクソンに会って来た。92歳で、1月には93になる。足が少し悪いけど、一人で歩けて唄って、とっても元気だった。そして世界中のプロレス関係者の中で最高齢となるサルバドル・ルテロ・カモウ(EMLL=CMLLの2代目当主)にもアレナ・メヒコでお会いした話はすでに現地からのレポートで書いている。通称チャボさんは99歳。自分でスタスタ歩行するし、私とボクシングごっこをしたり、超お元気でした。男子の平均寿命73歳のメキシコにおいて、92歳のディクソンや99歳のチャボさんは超びっくりの長寿といえる。逆に58で亡くなったスコルピオ・ジュニアは早過ぎるということになる。
チャボさんにお会いした後に「もし、力道山が生きていたら、こんな感じだったのかなあ」と思った…。1つ違いだものね。力道山が日本プロレスの社長兼エースだったのは1953年からの10年間。チャボさんは見習い期間を経て1943年にアレナ・コリセオのプロモートを父親から任される。代表を退任したのが79年だから36年間、EMLLでプロモーターをしていたことになる。その後も45年間、名誉会長のような形でEMLL→CMLLを見守って来た。イホ・デル・サントが上空から吊り下げられて登場とした時も、花道を作ってエスコートガールが選手に帯同して来た時も「ルチャは戦いだからあんな演出は必要ない!」と大激怒したという。力道山がああいう不慮の事故が起こることなく現役レスラーを引退したとしたら、どんな立場で日本プロレスを見続けたであろうか。暫く、社長をしていただろうが、政界や実業界へと躍進して行った可能性があり、恐らく誰かに社長職を譲ったであろう。それは豊登でも、芳の里でもなく、馬場だったような気がする。それで力道山は会長職に収まる。そうしたら猪木はどう出ただろうか。力道山会長がいるのに猪木は馬場に挑戦を表明しただろうか。力道山は馬場vs猪木をやらせただろうか。力道山の目がまだ光っているのに、猪木は日本プロレスを飛び出しただろうか。んーっ、妄想は膨らむばかりだ。力道山が生きていたら日本プロレスは73年で潰れることなく現在も続いていたかもしれない。CMLLのように…。
CMLLのように…というなら、やはり社長は馬場であってはならない。ルテロ家やマクマホン家のように百田家によって世襲しないとプロレス会社は継続しない。再び妄想のスイッチオン。力道山は馬場よりも我が子が可愛い。織田信長は自ら“神”となり、家督を長男の信忠に譲った。天下を家来の秀吉や同盟者の家康に「はい」と譲るわけがない。そうすると日本プロレスの2代目社長は百田義浩さんということになる(実際に敬子さんは後日義浩氏へと、そういう約束を豊登、芳の里らとしているが反故にされた)。力道山が存命ならば豊登が東プロを旗揚げすることも、吉原さんが国プロを作ることもなかったはずだし、息子たちをレスラーになんてしなかっただろう。義浩さんに実業家としての英才教育を施し、そこから背広組(百田家)による日本プロレス政権が始まったのではないかと思う。力道山名誉会長の目が光っている限り、造反はなかなか難しい。国内でオポジションを作ることも圧力があるので困難。逆らう人間はヒロ・マツダのように国外へ飛び出すしかなったのではないか。でも、アントニオ猪木だけはいつか明智光秀のように主君の首を狙ったかもしれない…。パーティー会場で美味しい食事を頂き、ほろ酔い気分の私は敬子さんが生バンド演奏で唄う“テネシーワルツ”を聴きながら、そんな妄想の世界にどっぷり浸っていたのであります。妄想ではなく、一つ言えるのは「力道山がもし100歳まで生きていたら、少なくとも今のような多団体になったり、見も知らずの選手が増えことはなかった。プロレスラーは選ばれし者たちだけの、もっとリスペクトされる存在であっただろう」ということである。ただ、こういう巨星が堕ちた時は、信長や秀吉の死と同様に必ず動乱が起きる。そうならないよう家康みたいな不動の継承システムを死ぬ前までに構築しておくことこそ世襲制には必要なのである。故に61年前の力道山の死はあまりに大きすぎる。やはり力道山は“特別”である。さあ、来月は本門寺へお墓参りに行きましょう。