今週末の土曜日は今年最後のトークショー…VIVA LA LUCHA Vol.55『2024ルチャ・リブレ観戦ツアー報告会』です。帰国からちょっと経過したけど、私の中であの旅は色褪せてはいない。今年もいろいろ旅をしたが、そんな中で一番強烈な印象に残ったのがこのメキシコツアーであった。初めての渡墨から45年…今まで何度、メキシコに行ったのか数えたことがない。ツアーに関わったのは1998年2月と昨年9月と、今年の9月の3回。それ以外はすべて取材が目的。ツアーになると、お客さんたちに何とか喜んでもらうためにか、「さすが…」と言われたいがためか、いつも以上に張り切ってしまう。取材は緊張感があるが、同志がいるツアーは喜びを共有できて楽しいものだ。それにしても、今回これほど濃厚な内容のツアーになろうとは、私自身も想像していなかった。だからツアー中に「帰ったら報告会をやるべき」となったわけで、誰一人反対者は出なかった。今回のツアー参加者のみなさんには闘道館に来てもらう。彼らも「自分たちが体験した内容を伝えたい」「こんな安全で濃い中身ならば次回は絶対お勧めですよ」とアピールしてくれるはずだ。私はツアー終了後に1週間残ってイホ・デル・サントの引退ツアーを取材した。時間が許せば、この模様も報告したいと思う。今回の報告会のチケットは最安価に設定したし、当日は参加者全員にプレゼントを用意しました。選手から直接貰ったレアなマスクが当たるジャンケン大会や、その他いろいろグッズ物販もあるのでお楽しみに…。ここでドクトル・ツアーをしっかり研究してもらって「来年は一緒にメヒコに行きましょう!」。土曜日は是非、闘道館へお越しください。
さて、メヒコの後、今月半ばに行ってきた陸中の旅。先週に続いて岩手県陸中海岸の昭和のプロレス史について書いてみようと思う。先月発売のGスピで特集した50年前の1974年。新日本が7月7日に釜石大観音横広場で興行を打つと、全日本は同年9月18日、初めて三陸へ進出し、同じ釜石市の富士鉄保体育館で打ち返す。メインは馬場&杉山vsブッチャー&オットー・マンハイム。釜石は近代製鉄の発祥の地で最盛期には人口が9万人に膨れ上がる。市よりも製鉄会社が自前の体育館を所有しているのだ。その好景気を狙っての進出だったようだが、全日本が陸中に来るのは81年までない。逆に新日本は翌75年にも釜石へ行っている(10月6日=観衆2900人)。その時に使用したのは新日鉄の小川(こがわ)体育館(59年竣工)である。みちのくプロレスの興行で私も一度ここを訪れたことがある。かまぼこ型の古いタイプの体育館だった。97年に市に譲渡されて市民体育館となって、東日本大震災のときは避難所にもなった。そして老朽化のために2013年に取り壊され、19年に鵜住居町に新しい市民体育館が出来ている。国際は小川体育館へ76年5月2日に進出。メインは木村&草津vsスコーピオンズ(チン・リー&ジェリー・クリスティ)。発表の5200人はシリーズ最多タイで「岩手に強い国際」を連想させた。調子に乗った国際は78年7月17日にもここへ来るが発表は2400人。恐らくこれ以下の実数だったはずだ。
国際は、73年夏の「合宿シリーズ」の後、それを一瞬再現するようなコースが75年夏にあった。『ビッグ・サマー・シリーズ』…龍泉洞のある岩泉町から南下して陸中山田駅前広場(7月13日)と翌日の陸前高田市民会館で興行を打っている。両日ともに“奇襲部隊”ロス・コマンドスがメインを張った。井上&田中と木村&草津が相手で連敗…結局、彼らはIWA世界タッグへの挑戦はさせてもらえなかった。
岩手県の海岸線で一番大きな面積を誇る市、それが宮古だ。釜石から北へ55キロの所にあり、浄土ヶ浜や早池峰山など景勝地が多い。市内の宮町に存在した「宮古ボウル」に初進出したのは新日本だ(6月10日)。だが、アリ戦を控えた猪木は不出場(残念…)。そういう借りをすぐに返すのが大塚直樹流の営業法。翌77年9月24日、宮城・気仙沼市商港から三陸を北上して翌日の宮古へ入る。そして宮古ボウルで猪木をメインに出した。カードはスタン・ハンセン&ブラックジャック・マリガンvs猪木&ストロング小林。でも、このボウリング場を有名にしたのは国際だった。69年4月の宮古では小学校の体育館だったが、まだ市の体育館のない宮古ではこのボウリング場が唯一、客の集まりやすい施設であったらしい。77年11月27日の『全軍対抗戦』第3戦がそれ。シリーズは全日本との合同興行であったとはいえ、宮古の主催者は国際。前橋、秋田の大曲の次がここだから、かなりの強行軍だ。ゴングが陸中へ取材に行ったのは、恐らくこれが初めてのことだろう。メインは木村vs鶴田。シングル3度目の対決は、ここまで引き分け続きだったが、パイルドライバーから木村がピンで初勝利。この日は他に草津vs羽田、天龍vsムラサキ、小鹿vs鶴見、剛vs大仁田なんかがあった。「この時は僕が社長の車を運転して吉原さんと菊池孝さんを乗せて前橋から大曲、そこから宮古、東京へと長距離移動をしましたよ」(高杉)。宮古から戻った翌日は高田馬場BIG BOXで原進(阿修羅)の入団発表があって、その夜が大田区大会だった。
70年代前後に中山律子と須田開代子が火つけ役で起きたボウリングブーム。72年には全国各地に3700箇所のボウリング場が出来た。プロレスの会場もこうした地方のボウリング施設かを使うことも多くなる。天井が低い欠点はあった。でも全国的に体育館がなくてもボウリグ場のある市町が多く、使用料も安かった。ブームは来れば必ず去る。80年代を待たずに廃業するボウリング場が各地で出てくる。宮古ボウルなどもその一つだったようだ。80年6月23日に新日本が来た時は「宮町(旧宮古ボウル)」になっていたので、取り壊された跡地か、建物は残っていても空きビルになっていたのか…。この時のメインは猪木vsバッドニュース・アレンであった。国際は81年夏、最後のシリーズで旧宮古ボウルを使っている(8月4日)。前々日が気仙沼市の朝市広場で、前日の宮城県築館町の「つきだてボウル」を経て、宮古へやって来た。メインは木村vsジプシー・ジョー。これが数々の死闘を繰り返してしたシングル対決最後となる。恐らく宮古の翌日に八戸まで行って、そこからフェリーに乗って最後の地・北海道へ渡ったのであろう。宮古の時にすでにカウントダウンは始まっている。残りは僅か5日…4試合となっていたのだ。次回は宮古から95キロ北上した『あまちゃん』の町、久慈について書こうと思う。