東京競馬場は8万2000人の大観衆。これだけの数の人間を一望することが出来るのはここしかない。8万近い群衆が発する大声援は相変わらず凄まじいものがある。私のPOG指名馬エリキングは上がり最速の脚を使って後方から追い上げたものの5着だった…。365日前の選んだエリキングはよく頑張ったと拍手を送ろう。

ダービーが終わって、また新たな一年が始まった。今週末から新馬戦が始まる、それぞれが来年のダービーを目標に…。競馬は暦だ。クラシックは一生に一度、毎年同じ時期に同じ条件で行われるから良い。俺が死んでも春に桜が咲くように、ダービーも延々に続く。プロレスの世界にもかつて暦があった。毎年、同じ時期に同じ名称のシリーズが開催され、それによって季節を感じることが出来た。日本プロレスの『ワールド大リーグ戦』も毎年春に開催され、シリーズとして唯一、優勝のあるリーグ戦方式で行われていたからとても価値があった。サマー・ミステリーあたりからか、夏になるとマスカラスが来るようになった。それで夏が来ているのを感じたのは、もう遠い昔のように思える。マスカラスが来なくても日本は昔より暑くなった。

ということで、今週も遠い昔の真夏の話をしよう。1回で終える予定の「プレゼント着」の話は遂に4週目に突入してしまった。77年夏、全日本『第2弾サマー・アクション・シリーズ』。私が会長をしていたミル・マスカラス・ファンクラブ『エル・アミーゴ』はマスカラスのためにチャマラ(ジャンパー)を作ってプレゼントした…先週はここまで書いたよね。先週、8月25日の田園コロシアム(vsジャンボ鶴田)の日に渡したと書いたが、ごめんなさい…これは大間違い。渡したのは8月30日、宇都宮スポーツセンター(vsザ・デストロイヤー)の控室でした。この日は黒いラメの金色のフチドリのマスクを初めて被った日で、宿敵デストロイヤーに初のフォール勝ちをした日でした。その時に「アミちゃん(マスカラス)が明日(沼津)の試合でこれを着るってよ」と竹内さんが教えてくれた。私は「本当ですか。やったあ!」と小躍りした。その上に竹内さんは控室で馬場さんから別の情報を仕入れていた。「会長(私の愛称)、明日の沼津で馬場さんはマスカラスとシングルをやるって言っているよ」。ライバル誌が取材に来そうもない宇都宮のテレビマッチの翌日…ここで馬場vsマスカラスをゴング独占で取材できるかも…。馬場さんがというよりも、竹さんが馬場さんに捻じ込んだカードなのかもしれない(後になってそう思った…)。でも、その時点ではビックリだった。1971年2月の初来日前には馬場vsマスカラスがあるのではと注目されたが、蓋を開ければvsスパイロス・アリオンのインター戦(凡戦)になり、2度目の来日は馬場vsフリッツに、3度目の馬場vsボボ・ブラジルに、4度目はインターの防衛戦すらなかった。日本プロレスはマスカラスが小さいからという判断だったようだ。マッドドッグ・バションが挑戦できなかったように…。馬場も小兵を嫌ったので、ノンタイトル戦すら組まれない。全日本になってからMMには覆面世界一の称号を持つデストロイヤーが対戦相手としてあてがわれ、さらには鶴田とのドリーム対戦もクローズアップされたので、馬場とのシングル話は一度も浮上しなかった。

それがノーTVとはいえ、沼津で実現する…私とウォーリーは山口家のステーションワゴンに乗って東名を飛ばして沼津市体育館へ向かった。そして会場へ着いて、田中印刷の田中護おじちゃんにパンフ用のスタンプを押してもらってびっくり。MMの相手は馬場ではなく天龍源一郎になっているではないか。24時間で馬場にどんな心変わりがあったのか、竹内さんに馬場さんはこう言った。「竹ちゃん、悪いな。でも天龍との初対決でも悪いカードじゃないだろ」とニヤリ。対戦を回避した理由を馬場さんは誤魔化して言わなかった。もし、やっていたらどうなったのか…。初来日の時のインター・タッグ戦、最終戦の茨城県スポーツセンターなど随所に馬場が小兵扱いするシーンがあって、何となく展開を垣間見ることが出来る。逆に同シリーズでのタッグ対決ではマスカラスが馬場をフォールした数が馬場より上回っている。そこには「巨人にも力負けしないスーパースター像」があった。シングルをやっての結果はどうであれ、マスカラスは「相手が大きな馬場だろうが、絶対にいい試合をする自信があったよ」と後年、語ってくれた。「私はザ・コンビクトやアーニー・ラッドともやっているから巨人の対処法を知っている。相撲で大きな力士に対して小さな力士が挑みかかり、テクニックを駆使して投げたりする姿って、日本人は大好きなんじゃないのか」と好きな相撲のことまで持ち出して私に訴えてきた。確かに…。もしかしたら日本プロレスも、全日本プロレスも、やれば面白いカードを切り捨てていたと、言えるかもしれない。

さて、沼津のセミ。マスカラスは我々のFCの青いジャンパーを着てリングへ向かった。サイズ自体は合っていた。だが、計算外だったのは首回りだ。同じLLでも普通の日本人体型の首回りと、ミスター・メキシコになったMMの首回りは全然違った。さらに胸板が張り出すように厚い。だから胸元のホックが3つも止まらなかった。オーダーメイドではないからしかたないが、改めてマスカラスのスペシャルなボディーの凄さを知らされた。この翌日(9月2日)の埼玉県嵐山町明星グランドでのロッキー羽田戦もマスカラスは我々のジャンパーを着てリングインしてくれた。この日、平日なのに午後5時試合開始。マスカラスがセミやセミ前ではなくアンダーカードの第4試合だったのは、この日の夜の便で帰国するからであった。試合を終えると米沢良蔵渉外部長とタクシーに乗り込み、風のように去って行った(5時開始もマスカラスのためだったとしか考えられない)。

さて、翌年夏、『エル・アミーゴ』は会員限定で応援用のトレーナーを作った。背中には会報の表紙にある「EL AMIGO」のロゴを入れた。このロゴは前身の「悪魔仮面」時代からの立体的なデザインで、私の高校の同級生で、高杉正彦会長の『豆タンク』にも入会していた中村藤男くんが描いたもの。ヒントになったのは映画『ベンハー』のロゴだった。胸には「LUCHA LIBRE MEXICO」の文字をデザインし、腕の部分には別売のメキシコ国旗のワッペンを縫い込んだ。これもあのジャンパーを作った目黒川畔のスポーツ用品店に協力してもらって作製した。当時では珍しい?七分袖。これをSからLまで10~20着くらい作って希望する会員たちに送った。そしてマスカラスとドス・カラス(初来日)のためにも1着ずつLLで作った。色はグレーとクリーム色。これを持って行って渡したのが田園コロシアム(8月24日=馬場&鶴田vsマスカラス兄弟のインター・タッグ戦)の控室だった。マスカラスはクリーム色を選び、ドス・カラスは残ったグレーを選ぶ。

我々、会員は全員がグレーで統一した。しかし、真夏である。トレーナーは生地が厚手だったので、すごく暑い。汗でグレーの半分は黒くなった。特にアヘン窟のような旧大阪府立体育会館(8月31日)は異常に暑いので有名な所、ここでの応援でトレーナーは地獄であった。その大阪の控室で、この日から特別参加のエル・アルコンに声を掛けられた。それがホセ・ルイス・メルチョール・オルティスとの初対面であった。「キミの着ているそれを私もほしいんだ」。彼は英語で私に頼んで来た。アマレス時代に海外遠征経験の多い彼は英語が堪能だったのだ。彼は控室でマスカラス兄弟が着ているのを見て欲しいと思ったみたいで、作り主を教えてもらい私に声を掛けたというわけ。実際、田コロ以降、マスカラス兄弟は会場内で常にこれを着てウロウロしていた。私としては嬉しい次第である。確かグレーのLLをもう一枚作ってあって、それが自宅にあるのを思い出す。「9月13日の名古屋の前日、東京でオフがあるけど、その日にならホテルで渡せるよ」と伝えた。それでインタビューのアポも取り付けた。なぜ12日間も渡せないのかというと、私も大阪から福井、佐渡、新潟、酒田、北上、青森、仙台、鷹巣、八戸、盛岡と巡業に付いて回るので、自宅へ帰れないからだ。そして帰京後の12日の銀座東急ホテルでアルコンにそれを手渡すと、本人は大喜び。13日の愛知県体育館でのマスカラスとのマスカラ戦の前に控室へ行ったら、アルコンがさっそくグレーのエルアミ・トレーナーを着て通路をウロウロしていた。私を発見すると「どうだ、似合うだろ」と嬉しそうにポーズを取ってくれた。このトレーナーはコスチュームというより、会場内で過ごすには、彼らにとってとても実用的だったようだ。特にメヒコは夜が冷えるので、こういう上着は大歓迎だったと思う。あれがTシャツでなく耐久性のあるトレーナーであったことも結果的に良かった。Tシャツと言えば、この夏、同名のステーキハウス『エル・アミーゴ』から応援用にと赤いTシャツを無料提供された。今はもうない環八店(第三京浜入口近く)は私とウォーリーやアナクラ氏の行きつけの店で、よく打ち上げをやったものだ。

私は昨秋、メヒコでローリン・ジュニアとスポーツ用品店をハシゴして、彼にサッカー、メキシコ代表チームのチャマラをプレゼントしてもらった。春先から初夏へ寒くなる日の外出に着たり、持参したり…今、私の一番のお気に入りである。やはり実用的な上着は貰うと嬉しいものだと思った。というとこで、4回にわたって書いて来たプレゼント着の話はこれでおしまい。
梅雨入りでもないのに、空が泣いている。昨日から長嶋さんの喪に服し、一つ時代の終わりを深く噛みしめています。私の最初のヒーローは力道山でも、ミル・マスカラスでもなく、絶対的にこの人でした。ありがとう、長嶋茂雄さん、貴方の魂は永久に不滅です。