ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第714回】父と子

今の私の日常には土日もゴールデンウィークもない。故に「今日は何曜日なのか」とわからなくなることが多い。週刊誌をやっていた時代は曜日との戦いだったのに…である。だからゴールデンウィーク中も出掛けることなくコツコツ自宅でGスピの執筆していた。そうしたらコラムを書くのを忘れた。気づいたら水曜日になっていた。“ああ、なんてこった!”(ポパイのセリフ)。ということで急遽、筆をとる。1日遅れ?ですみません。

お通夜…立派な祭壇だった。

先週の火曜日と水曜日は“新間のおとうさん”のお通夜と葬儀へ行った。どちらも弔問客でいっぱいだった。新宿区喜久井町の感通寺が新間さんの実家。立派なお寺である(44年ぶりの再訪)。このお寺の子だった新間寿氏は、5兄弟の次男。五男だけが僧侶となって感通寺を継ぐ(10年ほど前に土肥の温泉でお会いした)。その五男のご住職には3人のご子息がいて全員が僧侶で、長男は島根で、次男は神楽坂で住職をされている。現在、感通寺を継いでいるのは三男。喪主の寿恒さん(私は恒ちゃんと呼ぶ)に「ビジャノスだね」というと笑っていた。この三兄弟が揃ってあげる読経は迫力があった。「葬儀が決まった時、どんなお経をあげるか兄弟で揉めていたよ(苦笑)」と恒ちゃん。お通夜…藤波、佐山、前田という新間さんが育てた三傑作が本堂のゲスト席に一列に座っている。ご焼香の時間となり、藤波さんが立ち上がる。身体の悪い佐山さんは座ったままの焼香。それを横でじっと見届けた前田がゆっくり立ち上がる。何かいい雰囲気の間を垣間見た。おとうさんの前では誰もがノーサイドだったよ。猪木啓介さんもそう…。

数ヵ月前かなり危なかったという佐山さんは、新間さんの励ましのメッセージで元気になって声も出るようになった。

主賓の藤波さんと佐山さんは葬儀にも来られた。控室で私は佐山さんと、新間氏の思い出を語る。その時、佐山さんは「明治の軍人のような、そんな感じの方でしたね」とポツリ。私が「乃木希典。乃木将軍みたいかなあ。明治天皇(アントニオ猪木?)と日本国(新日本プロレス?)のために戦って勝利した。天皇が崩御して、それに殉じた人だから」と言うと、佐山さんは「乃木将軍ねえ…まさにそんな感じですね」と同調し、乃木将軍の人柄を称える詩をさっと口にする(さすが博学…)。佐山さんはこの後の弔辞で、その詩をそっと別れの言葉に入れた。たぶん誰も何かわからなかっただろうが、私は“よくぞ、ここで”と思った。恒ちゃんは柩へのお花入れの時も、お別れの時も涙一つ見せなかった。私にはユニバーサル時代の現場で毅然と構える新間寿恒代表が重なった。10歳年下の妹・千草さんが横で号泣しようが、兄は表情一つ変えない。この通夜と葬儀という一大イベントを喪主=プロモーターとして捉えているように見えた。「清水さん、お棺担ぐ?角ではなく真ん中あたりを持って」と言われ、そうさせてもらった。

本堂の階段。慎重に柩を下す。

恒ちゃんの喪主挨拶は、後でお母さんに「長いわよ」って言われたらしいけど、なかなかの立派な挨拶だったと思う。彼からよく聞いていた話が多かったけど、たぶん、みんな聞いたことのない父と子の関係、父の最後の様子に感心して聞き入っていたと思う。ここに来ている今のプロレスマスコミたちは、この新間寿の長男がかつてプロレス団体の代表だったということを知らないだろう。例え知っていたとしても、声すら掛けたことがないはず。現に、通夜の時も葬儀の前も、喪主とわかっていて誰一人取材に来なかったという。そんな喪主挨拶の最後に、さすがの恒ちゃんも言葉を詰まらせ、涙をにじませるシーンがあった。「怖い父親でした」。私たちゴング少年探偵団は本人公認で「おとうさん」と呼ばさせてもらっているけど、もし本当の父親だったら大変なことも多かったと思うよ。「でも優しい父でもありました」と口にして、涙ぐむ恒…やっぱり父と子なんだなあという“宿命”みたいなものを感じた。

喪主・新間寿恒氏の挨拶。後ろは甥っ子の三僧侶。

私は「最期の最期まで見届けないと…」と落合の斎場へも赴く。もうここにはマスコミ関係の人間は誰一人来ていない。ほぼ、身内かそれに近い人たちのみだった。新間さんのお骨を拾った。亡くなる前日はあんなに温かった手が柩の中では冷たくなっていて、遂には骨になってしまった…。斎場の係の方が「これが喉仏です」と言った瞬間、私は「これが世界を震撼させた新間さんの喉かあ」と思わずつぶやいてしまった。それを聞いた恒ちゃんがニヤリと笑った。

偉大な仕掛人もこんなに小さく…。

感通寺に戻って来ての初七日の法要、精進落とし…。奥さんの陽子さんと恒ちゃんに挨拶してお寺を出る。帰宅する前に墓所へ…四十九日に納骨される新間家のお墓を偵察。自分たち家族のために作った真新しい墓石には、新間寿と陽子の赤い文字が並んで彫られていた。

寿氏が入る新間家のお墓…。

そういえば10数年前に新間さんから突然電話があって「おい、清水、俺の墓の横の墓誌に俺の功績を記したいんだ。その文章を考えてくれよ。お前ならば、俺がいつ生まれて云々って今まで何をやって来たのか、キャリアがわかるだろ」と言われた。まだ元気なのに、そんなの書くのは嫌だった。で、その場は誤魔化して済ませた憶えがある。そんなことがあったと恒ちゃんに通夜の日に伝えたら「俺たちだって、その墓に入るんだから止めてよ。親父一代の墓じゃないんだからさ」と苦笑いしていた。ここで私がこんなアイディアを披露した。「四十九日も終わって、少し落ち着いた頃に有志を募って新間さん、竹内さん、櫻井さんの墓巡りツアーをしたいんだよ」と伝えると、恒ちゃんは「いいね、それ。でも、親父が一番最初でないと、親父は怒るよ」と笑って言った。「わかったよ。感通寺からスタートするよ」。

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