発売から1週間、GスピリッツVol.68はもう読破されましたか…。さて9日の日曜日は新崎人生をゲストに招いてのトークショー。30日の金曜日には後楽園ホールの『みちのくプロレス30周年記念東京大会』にお邪魔して、リング上からトークショーの宣伝をさせてもらった。このリングには何度上がったことだろうか。数えきれないほどのタイトルマッチの認定宣言やベルトの返還をしたし、『ふく面ワールドリーグ戦』の大会実行委員長として組み合わせ抽選会を仕切り、開会宣言や優勝トロフィーの贈呈もした…懐かしさばかりである。今回、みちのくプロレスのご厚意でホールに特設売店を出させてもらい、「闘道館」の泉館長と一緒にテキ屋みたいにチケットを売った(お陰様で売れましたよ…)。当初は第1試合の前に宣伝の時間を作ってくれるというだけだったのに、第4試合にサスケ、ウルティモ・ドラゴン、ディック東郷と組んで出場した人生が試合後にリングに残ってくれて、トーク形式での宣伝という形を取ってくれた。ありがたい配慮である。そして実行委員長の立場では新崎コミッショナーに『第7回ふく面ワールドリーグ戦』の開催を要請した。第6回が2016年で、2020年予定の第7回がコロナで流れたままになっていたからである。それで来夏開催の方向で合意…。それにしてもみちのくは30周年を迎えてめでたい限りだが、果たしてここに集まったどのくらいの人たちがリアルなルーツを知っているのだろうか。
1991年に旗揚げしたユニバーサル・レスリング連盟に所属していたザ・グレート・サスケが2年後、ギャラの未納等を理由に独立を計る。サスケに「東北だけでやればいいじゃん」と知恵を授けたのは、ユニバでレフェリーをしていた今は亡きウォーリー(山口雄介)。ヒントは91年5月に米国テネシー州東部のアパラチア山脈の麓にあるノックスビルで旗揚げしたSMW(スモーキー・マウンテン・レスリング)。代表のジム・コルネットは熱狂的なプロレスファンで、元ゴング誌のテネシー地区の通信員をしていた。好きが高じて82年からCWA、MSWA、WCCW、NWAにて悪党マネージャーに変身して大当たりするが、次はプロレス団体の設立…それがSMWであった。通称「スモーキー・マウンテン」はノックスビルを中心にテネシー州のジョンソンシティ、ハロゲート、ベントンといった田舎町、あるいはケンタッキー、ウエストバージニアなど隣接する州の小都市を巡回する超ローカル団体である。大都市を避けて、敢えて田舎町だけで勝負するという逆転の発想とマニアックな感覚が馬鹿受けした。ここから後に全日本の常連となるザ・ファンタイティックスを始め、ロックンロール・エキスプレス、ヘブンリーボディーズ、ブライアン・リー、トレーシー・スマザースらが排出され、名を売った。そのコンセプトを東北六県に置き換えて、みちのくプロレスは93年に旗揚げしたのである。
プロレス団体の本部は東京にあるのが当たり前という時代に、サスケは事務所を生まれ故郷の盛岡の自宅に置く。この地方発進のスタイルは当時とても斬新であった。「そのアメリカの小団体が発想の原点だってウォーリーさんに聞いていましたよ」と創始者のサスケはちゃんと憶えていた。SMWが無ければ、みちのくプロレスは存在しなかった…私もそれをウォーリーから聞いていた。SMWは5年間で崩壊したが、みちのくは30年を経過して健在。余談だが、その後、コルネットはWWFと接近、正式契約は96年だからハクシー(白使=人生)より後になる。海外通のウォーリーは元々“ゴング少年探偵団”の同志…それ故、私もみちのくへの思い入れが深い。では、私がどんな形でみちのくプロレスと接点を持ち、新崎人生と出会ったのか…。その過程をトークショー前に予習しておいておこう。
89年1月に私は週刊ゴングの編集長になる。そのちょっと前から新生UWFを私が嫌々担当していた。編集長といえども団体が増えれば人手がないので、どこかを担当しなくてはならない時代だった。大相撲を廃業してフリーになった北尾番をしたこともある。90年からはインディー時代に突入し、編集部も人手はさらに足りなくなる。90年3月にユニバが旗揚げ…メキシコものの団体だから必然的に私の出番となるが、「メキシカンの技がわからないから」云々で記者たちからここは敬遠された。93年3月に旗揚げした「みちのくプロレス」はユニバの残党、延長線と見られていたので、自然と私がスライド担当する。今からもう30年前の話である(歳を食うわけだ…)。
私も長くこのプロレス業界に居て、時に裏から団体をいろいろケアしてきたが、一人のレスラーをデビュー前からプロデュースしたのは新崎人生が初めてだ。新日本、全日本、国際にいろんなアドバイスや仕掛けを手伝ってきたあの竹内さんでさえ、「一選手のプロデュースはやったことはない」と言っていた(竹さんも人生が大大大好きだったよ)。もう30年経ったから言うけど、みちのく初期には私のアイディアを随分採用してもらった。サスケvsSATO(ディック東郷)のマスカラ・コントラ・マスカラとマスカラ・コントラ・カベジェラ戦、ふく面ワールドリーグへのドス・カラス、アトランティスらの投入、アンダーテイカーの出場要請…シリーズ名や闘龍門からの移籍選手の命名他…いろいろ。自分で言うのも変だが、ある意味、フィクサーだったかもしれない。そんな私が一番熱を入れたのが新崎人生である。
それは93年2月、六本木のJCTVスタジオ。『格闘チャンプフォーラム』収録日、プロモーションビデオを収録するためにミスター・トヨタ(ウォーリー山口)がスタジオに連れて来たのか新崎人生。当然、ユニバのモンゴリアン勇牙をやらされていた頃から彼を知っていたが、私から言わせればあのキャラは駄作。何も響くものはなかった。もしその後、お遍路以外のキャラクターに変身していたならば、私はこの人をスルーしていたかもしれない。お遍路スタイルに大変身したから「そうか、そうきたか。よくぞ!」となった。76年春、私はバイクで四国を一周し、何番か札所に立ち寄り、そこの宿坊に泊りもした。だから四国を巡礼するお遍路さんの何たるかを学生時代からそれなりに知っていた。私がドクトル・ルチャだからと言ってメキシカンキャラばかりに目が行っているわけではない。一番好きなのは純和風…それもご当地もの。だから秋田出身の巌鉄魁(SATO→ディック東郷)がナマハゲのスタイルで出て来た時は、「こりゃすごい、日本のプロレスもこうでなければ!」と思った。メキシコ選手がアステカ・マヤの古代戦士や土着インディオ、骸骨男等に変身する感覚って、日本のプレロスにも絶対必要だと思っていたからだ。巌鉄のナマハゲはあくまで一時的なコスチュームであった。それよりも徳島出身の人生のお遍路スタイル…そのインパクトは強烈だった。私が50年以上前に米国マットを通じてアメリカの地理やカルチャーを学んだように、我々は我が国のプロレスの中から教科書に出ていない日本の歴史・風土・文化を改めて学ぶべきだと思う。
「新崎人生」の命名は先輩俳優の宇梶剛士さん。お遍路スタイルでやるのを決めたのは本人のアイディア。試合で出す技はプレイングマネージャーのミスター・トヨタ(ウォーリー山口)からのアドバイス。そして新崎人生の「初期設定」と「シナリオ」は私が担当した。四国遍路とは何かを多少なりとも知っているがゆえに、ここは人に後ろ指をさされないようにちゃんと「初期設定」しなくてはいけないと真剣に考えた。プロレスラーのイメージとしては武蔵坊弁慶のような筋骨隆々で勇猛果敢な戦闘僧。そして基本、人前で喋っていけないということ。客の前では笑顔を見せないこと。デルフィン軍団の用心棒的な存在だが、決して根っから悪ではなく、日本人ならではの祈りの心、善の心を醸し出すこと。そして一試合一試合を札所と見立て、それを巡礼と称すること。それで八十八番(88戦目)に最大の目標を置いて、それが達成されれば「結願」(けちがん)して四国へ帰ること。それが私の授けたフォーマットであり、ミッションであった。
そして新崎人生の基本テーマは「巡礼」=「旅」。だから単なる館内での試合写真だけでなく、ゴングの誌面では、やたらと野外撮影を多くした。それは私がルチャ雑誌から学んで、ゴングの中で表現したことであった。彼の風貌、肉体、いで立ちは日本の風景に溶け込んだし、自然光の中でこそ映えた。私は彼と一緒に旅をしながら、「キャラクター選手」ではなく、本物のお遍路を“同行二人”で目指して行くことになる。いろんな人たちの協力を得ながら、お遍路としての新崎人生が完成形に至ったのは2001年ではないかと思う。今回のトークショーでは、“人生の知られざる人生”を次々にカミングアウトしていきたい。そして今度の日曜日はすべての設定を解除して、人懐っこい笑顔と軽快なトークも披露してもらおう。そしてあのビンス・マクマホン・ジュニアに人格者として認められ、あのジャイアント馬場に愛でられた人柄を満喫してもらいたい。恐らく、イベント後には、もっと新崎人生という人間が好きになっているはずである…。