土曜日の『第2回チャンピオンベルト・カーニバル』は、お陰様で盛況のうちに閉幕しました。優勝者は誰?と言われれば、レスラーならジョニー・バレンタイン、プロモーターならばフレッド・コーラーかな…。ということで、ご来場いただいた方、長時間の受講、おつかれさまでした。今に残るお宝(チャンピオベルト)を細部まで検証して世界プロレス史の新発見を導き出すというスタイルが一つ確立されたとすれば、これはこれでやった甲斐があったかと…。「第3回も期待しています」というお声掛けもいただいたので、また次なるラインナップが揃ったら開催したいと思います。なお9月28日(水)発売のGスピリッツVol.65では、今回のとは別企画の“チャンピオンベルト考古学”的なものを執筆したので、お楽しみに…。
さて今回のイベントの冒頭で、鶴見五郎さんの追悼のテンカウントゴングを鳴らして黙とうをしました。その前日、鶴見さんは73歳で亡くなられたからです。ご家族からかなり具合が良くないお話は伺っていたけど、まさかこのタイミングでとは…。でも私には「清水さん、僕がバトルロイヤルに出た8・26武道館の日ですよ」と嬉しそうに語る鶴見さんの声が聞こえてくるようだ。うん、あれからちょうど43年か…計ったように、日本プロレス史の記念日に天国へ旅立って行くあたり、プロレス者(プロレスファン→プロレスラー)らしい最期だったと思いたい。
私がゴングに入ってすぐだったように記憶する。鶴見さんの結婚披露宴が片瀬江ノ島であって、竹内さんの代理で出席した。それが最初の接点だと思う。鶴見さんの病床でその事を奥様に伝えたら「そうだったんですか」と喜んでおられた。でも、本当に鶴見さんと親密になったのは、ずっと後年…GスピのVol.9(2008年12月発行)で茅ヶ崎のご自宅を行ってロングインタビューをしてからだろう。ゴング時代と違ってGスピになってからの私のインタビューの手法は、取材当日より半月以上前から徹底的に本人を調べ上げることから始める。本人も知らない、あるいは忘れているであろうデータ(特に海外での勝ち負けを含めた試合記録)を収拾して本番の臨むことだった。“俺は貴方よりも貴方のことを知っているよ”くらいの気概を持ち、そして膨大な資料を揃えて対峙するのである。その時の茅ヶ崎もそうだった。話していると、“ううっ、何でこの人はそんな事まで知っているんだ…”という顔付きになっていくのがわかる。それは戸口さん(キム・ドク)みたいなビッグマウスの人間には有効な作戦だ。「ああ、あの試合は俺が勝ったよ」なんて、プロレス流の嘘をつかせないためにデータ武装して臨むのである。そうやってコーナーにじりじり追い詰めていくと、逃げ場を無くしてたまらず本音を漏らす…刑事の尋問と同じである。
鶴見さんもそうだった。追い込まれると次第にこちらの力量を認めざるを得なくなり、素直に尋問に応じてくれたのである。ただ、一つだけ私にシラを切り続けられたことがある。1975年5月8日、アレナ・イサベル・デ・クエルナバカで鶴見さん(ゴロー・タナカ)がドクトル・ワグナーの持つNWA世界ライトヘビー級王座に挑戦して2-1で勝ちながらもウェイトオーバーでタイトルが剥奪になったという下りである。当時の日本の新聞や雑誌でも鶴見さんから送られてきたベルト姿の写真によって、そのように報道された。この“幻の世界王座奪取”のニュースは、日本のファンにもしっかりインプットされ、パンフ、名鑑などのプロフィールに長い間、残っている。ましてや同王座のベルトは、前年にジャイアント馬場がジャック・ブリスコから奪ったNWA世界ヘビー級の“レイスモデル”と同じデザインにチェンジしたばかりだったから余計に目立った。
「最初から体重が違うのにタイトルマッチをやらせるんだからいい加減だよね。試合前の計量はしなかったですよ。あの時は試合後の控室でやりました。8キロくらいオーバーしていましたよ。ちゃんと2フォールとってリングでベルトが移動しているんですけどね。計量後に“証拠写真だから早く撮ってくれ”と急かしてカメラマンにベルト姿を撮ってもらったわけ。その後にプロモーターが来てベルトを取り返しにきたよ」。これがその時の鶴見さんの弁。2013年5月に私のトークショー(ビバ・ラ・ルチャVol.14=ネイキッドロフト)にゲストで来た時も同じような話をしていた。その時は現物のNWAベルトと38年ぶりに再会している。私は2回にわたる“作り話”を黙ってスルーした。鶴見さんが気持ち良さそうに話しているのを潰すのは失礼と忖度したからだ。ただ鶴見さんは私のことを元週刊ゴングの編集長と見ていただろうけど、私が“ドクトル・ルチャ”であることを認識していない。
アメリカマットでよくある“幻の王座移動”はメキシコマットでは絶対にない。日米でよくある王座預かりもない。カンペオナート(選手権)は完全決着で、反則絡みであろうと王座は移動する(たまに引き分けはあるが…不透明決着はない)。このクエルナバカの選手権は鶴見の2-1の勝ちではなく、何事もなくワグナーの2-1の勝ちだった(4度目の防衛成功)。確か当日の「鶴見日記」には、特別に何かがあったとように書かれてなかったと思う。よって、これは幻の…ではなく、隣の控室からベルトを拝借して撮影した写真を日本に送ったというのが真相であろう。クエルナバカ(日本ならば前橋あたりか)にカラーフィルムで写真を撮るカメラマンが居たというのも怪しい。もしかしたら撮影はメキシコ市内の会場か…。私は「もうそろそろいいだろう」と思ってGスピVol.63のアリーバ・メヒコの「アルフォンソ・ダンテス下編」で、このことをカミングアウトしようと原稿に書いていたけど、佐々木編集長から「鶴見さんがお元気なうちは伏せておきませんか」と、忖度してその部分を削除している。だからと言って亡くなったらって直ぐにバラすというのは、どうかと思うが…私にはこういう小細工がいかにも鶴見さんらしい、プロレスファン頭ならではの発想だということを伝えたい、そうと思った。幻の…に名誉なんてない。こういう顛末だったというほうが、ほっこりしていいと思う。逆にウィキペディアには「そもそも最初からタイトルに挑戦していない」という説もあるが…などといい加減なことが書かれている。それこそ、鶴見さんの名誉のために、ちゃんとこの日にクエルナバカでタイトルに挑戦しています!と断言しておく。70年8月28日のレイ・メンドーサvs柴田勝久(アレナ・メヒコ)に続く、同王座に挑戦した日本人選手第2号だった(誰か直しておいて!)。
2008年のロングインタビューの最後の頃に「自分はずっと日記をつけていたんだけど…」とポロリと漏らしたことが発端で「鶴見日記」の存在が明らかになる。私は2度目の茅ヶ崎の自宅訪問で、現物を確認した。2013年のトークショーが過去現在を含めて最多の入場者数をマークしたのは、この「鶴見日記」の初公開という側面があったからだろう。ここで明らかになったのは、それこそ公式記録が残っていない“幻のシリーズ”とされる国際プロレス1980年『第2次ビッグ・サマー・シリーズ』の全貌だ。第1次の最終戦と言われる札幌中島体育センター(7月25日)から第2次の開幕とされる8月1日の岩手・西根町民体育館の空白の6日間。ここで何かあったのか…。札幌の翌日の26日は深川市総合体育館、27日は丸瀬布町体育館で試合が行われていて、そこから一部の外人を鶴見さんが成田に送って、31日に大館市体育館で本隊と合流したことも書かれていた。つまり第1次と2次の間に3試合あったことが日記で判明したのだ。それは記録マニアにとっては長年“謎”とされてきたトンネルが貫通した瞬間だった。
1981年8月9日の羅臼でメインを務め、14年の国際プロレスの歴史を締めくくったのは鶴見さんだった(テリー・ギブスとの金網)。歩いて「高島屋旅館」へ帰り、トドの刺身を食べて、缶詰を土産に買ったことも記されていた。「羅臼の後に試合をしながら東京に戻った」という都市伝説も、この日記によって否定された。羅臼の翌日(10日)はバスで札幌へ…定宿ポプラホテル泊。11日はスネーク奄美宅へ線香を上げに行き、室蘭で映画を観て夕方のフェリーで青森に渡る。そこから陸路、帰京している(その車中での博打であろうか。“勝ちを全部持って行かれた”とある)。鶴見日記をつぶさに見て行くと「墓参りに行った」「墓参に行く」という記述がオフに何回も何回も出て来る。私は鶴見さんに「どなたのですか」と訊いたことがある。「親父の墓ですよ」。鶴見さんにとって父親は特別の存在だったようだ。
帰京からの国際の事務所の様子、鶴見さん自身の身の振り方、西ドイツ(ハノーバー)へ行く過程なども実に興味深い。この日記の存在は、今まで分からなかったプロレス史のジグソーパズルを埋めるピースのように重要な一次史料だと思う。鶴見さんがこの日記を手離した頃、泉館長に頼まれて闘道館(水道橋)で日記を駆使したトークショーを鶴見さんと一緒にやった(2016年2月4日)。その動画が闘道館から1週間限定で公開されているので、ぜひ覗いてみてほしい(素の鶴見さんが観られますよ)。ということで、改めて鶴見さん、いろいろありがとうございました。ご冥福をお祈りしたいと思います。天国でお父さんと会えましたか…合掌。
そして最後に次回のトークショー。ビバ・ラ・ルチャVol.46のチラシが出来ました。前売りも始まっています。よろしくお願いします。