
道南、渡島半島の日本海側を走り続け小樽に出た私の進行方向には札幌があった。でも私は札幌へは行かずに石狩市からさらに日本海沿いを北上することにした。噂のエスコンフィールド(北広島市)を覗いてみたいと思っていたけど、札幌はホテルが高くて混んでいるので回避したというわけ。中島体育センターはもうないし、人がごちゃごちゃいる大都市はノー・グラシアスだったというのもある。1981年に国道231号(オロロンライン)が開通するまで“陸の孤島”“西の知床”と言われたていた秘境・雄冬を経て、映画『駅 STATION』の舞台になった増毛を通る。2016年には増毛線の廃線で増毛駅も廃駅に…。そして留萌市へ入る。ニシンの水揚げとカズノコの加工で有名なこの町の今の人口が1万8000弱。ニシンが豊漁だった60年代には4万人の大きな都市で、昭和末まで3万人をキープしていた。

プロレスが来たのは道内の他の市よりも遅めなのは、不便だったのと良いプロモーターがいなかったからだろうか。最初は1969年6月2日の日本プロレス『ゴールデン・シリーズ』第9戦の留萌市営球場。メインは馬場&大木&小鉄vsフレッド・ブラッシー&スカル・マーフィー&カール・フォン・スタイガー、セミが猪木vsエドワード・ペレス。このシリーズは北海道で6戦あったが、発表の入場者5500人は札幌や旭川よりも多かった。それだけプロレスが待望されたのだろう。GスピリッツVol.67から連載していた舟橋慶一氏のインタビュー。NETが日本プロレスの放送を決めた後に、舟橋氏はこの北海道ツアーに同行してプロレスの勉強をし、実況シミュレーションをしている。それに同行して舟橋さんの教育係をしていたのがゴングの竹内(宏介)さんで、東スポの櫻井(康雄)さんは記者として留萌に来ていた。舟橋さんによれば「留萌の市場へ行って3人でタコの燻製を食べていたらブルート・バーナードが来て、それを食べさせたんです。彼は“上手い、上手い”って喜んでいたのに、それがオクトパスだと聞いてびっくり。欧米人はデビルフィッシュと言われるタコは宗教上食べないらしい。それを櫻井さんが記事にしていました」なんて逸話をしてくれた。舟橋さんは本に載せていないこんな話もしてくれました。「試合後、留萌から櫻井さんと竹内さんとタクシーに乗って札幌まで帰ろうとしたんですよ」。留萌~深川には留萌本線(2016年廃線)が走っていたが、試合後では終電に間に合わない。もちろん前述の国道231号オロロンラインは着工すらしていない。つまり留萌から暑寒別山塊を大迂回し、雨竜町、滝川市を経て札幌へ南下しなくてはならなかったのだ。今ならば131km、それでも約3時間かかる。「車内で札幌までタクシー代がいくらかかるか、みんなで賭けたんですよ。一番遠い額を言った人が負けで、負けた人が札幌での夕食代を出すってことでね(笑)」。確か櫻井さんが負けって聞いたような…。竹内さんは5月31日の札幌はインター・タッグ(馬場&猪木vsマーフィー&バーナード)もあったから出張する必要があったが、6月1日の旭川と2日の留萌も明らかに取材の対象ではない。これは新番組に並々ならぬ熱意を持って臨もうとする舟橋さんにマンツーマンでプロレス教育をするために同行したのだ。竹内さんは田舎の旅館に泊まるのが苦手で、恐らく札幌行きを言い出したのは竹さんだったと思う。

それはさておき、次に留萌に入ったのは国際であった。72年5月12日の留萌市営球場。メインがストロング小林&寺西勇vsモンスター・ロシモフ&イワン・バイデン。セミがラッシャー木村vsジョージ・ゴーディエンコ。今はここを見晴公園野球場と言うらしい。この球場のお隣、レフト線方向の坂下に留萌市文化センターとスポーツセンターが完成したのが翌73年のこと。最初に屋根のある文化センター(恐らく隣のスポーツセンター)を使用したのも国際であった。75年7月20日。『ビッグ・サマー・シリーズ』第19戦、メインは木村&田中忠治vsジョニー・クイン&コマンド1号、セミはグレート草津vsギル・ヘイズ。そうか、ロス・コマンドスは留萌に来ていたのか…。同年11月には留萌に新日本と全日本がニアミスしている。11月3日が新日本で、28日が全日本だった。

新日本は猪木&ヤマハブラザースvsミスターX(ガイ・ミッチェル)&フィデル・カストロ&ラウル・カストロがメインで、セミが小林vsベアキャット・ライト。一方の全日本は馬場&アントン・ヘーシンク&小鹿vsダスティ・ローデス&ディック・マードック&ケン・マンテル…カードだけ見てれば、こっちに軍配が上がる。国際は76年にも留萌に来ている。メインは木村&井上vsスコーピオンズ(チン・リー&ジェリー・クリスティ)。79年には5ヵ月離れているとはいえ、全日本と新日本がまたバッティングしている。6月8日の全日本が馬場&鶴田&羽田vsビル・ロビンソン&ザ・デストロイヤー&ビリー・レッド・ライオンがメイン。11月7日の新日本はメインが猪木&藤波vsグレッグ・バレンタイン&マサ斎藤、セミはローデスvs長州。この時は新日本の出し物の方が勝ちに思う。モラレスやパターソンも出ているわけだから、豪華としか言いようがない。それよりもあの売れっ子のローデスが全日本にアウトローズで、新日本にアメリカンドリームで、留萌に来ているのはすごいと思った。問題はこの後だ。81年夏…国際プロレス『ビッグ・サマー・シリーズ』…ここで留萌市スポーツセンターが8月11日に入っていた。7月発表の同シリーズの日程を改めてみると、8月8日の根室市青少年センターとあるが、この時点で9日の羅臼は入っていなかった(これは驚き…)。そして11日が留萌で、12日の最終戦が函館市民体育館になっていた。7月半ばの時点で羅臼は無かったけど、この後に追加になったのだろう。実は羅臼の翌々日には道東・根室水道から西の日本海に面した留萌に大移動して試合するはずだったのだ。しかし、国際一行はここには辿り着けなかった。羅臼で崩壊した翌日、一行は札幌のホテルポプラで一泊して、室蘭からフェリーで八戸へ…そして陸路で東京を目指した。本当ならばホテルポプラで泊まった翌日は留萌へ向かう予定だった。でも国際プロレスは日本海を見ることなく消えてしまった。心待ちしていた留萌のファンにはどう伝わったのであろうか…。

昭和期に限定するならば、全日本が83年6月2日に最後に留萌へ行っている。『グランド・チャンピオン・カーニバルⅡ』の第18戦。メインは馬場&天龍&阿修羅・原vsディック・スレーター&ロディ・パイパー&ビル・アーウィン。セミではブルーザー・ブロディ&ニコリ・ボルコフが鶴田&キラー・キムを破っている(翌日の旭川が馬場&鶴田vsスレーター&パイパーのインター・タッグだった)。この日、2年前の羅臼の後、国際が辿り着けなかった留萌に原、井上、高杉(ウルトラセブン)、菅原、冬木がやって来て日本海を見たことになる。「それが最後の留萌でのプロレス大会でしたよ」という話を、この大会を観戦したという人から、私が留萌の会場を視察した夜に聞くことになる。


私は留萌に泊まらずにさらに日本海を50キロ北上して羽幌へ行った。羽幌は焼尻島、天売島に渡るための起点となる小さな漁港の町だ。私が48年前に来た頃の人口は1万3000人くらいの町だったが、今は6000人を割っている。翌日、懐かしの天売・焼尻に再び渡ったが、それ以外には羽幌に来たのには、もう一つ目的があった。ここに住んでホタテの養殖事業をしている野宮さんに会うためだ。野宮さんは一昨年と昨年、私が主催したマスク職人ローリンのイベントに羽幌から巣鴨までわざわざ2度も来てくれたという遠来のお客さん。ローリン製のマスクを200枚持っているという猛者で、ローリン自身もびっくりしていた。その上京のお礼というより、この僻地でひたすらコレクションを続けて来た彼に敬意を表しての訪問であった。私は羽幌で3泊して毎晩彼と会った。そのたびにいろんな貴重なマスクを見せてもらった。聞けばローリン以外のメーカーのマスクも多数あって、全部で1000枚以上所持してという。野宮さんの友人・青山さんもルチャファンで過去に3度メキシコへ行った経験があり、彼も収集したマスクを見せてくれた。野宮さんは毎日、200枚くらいピックアップしたマスクを持って来てくれ、私はその中からレアなもの、意外なものをセレクトし、ベスト10を選出したりして楽しんだ。北海道の大自然の中で野生化していたドクトルは、この羽幌滞在で非現実的なルチャの世界に引き戻された感じだった。

羽幌に来たメジャー団体は全日本だけだと言う。前述の83年の留萌の翌日…6月9日、今はもうないという羽幌町小学校の体育館で興行が打たれた。メインは留萌の6人タッグとほぼ同じ。馬場のところが石川敬士になっただけのカードだ。他にエリック兄弟が大熊&伊藤を破っている。『アイアンクロー』は羽幌にも来ていたのだ。主催者発表は1800人で、全18戦中で最も少ない数。羽幌のその頃の人口1万3000人をキープしていたのに…箱が小さいからか。彼らの話を聞くと、その後、90年代前半に大仁田FMWが羽幌に2度来ただけで、以後、プロレスは30年以上来ていないと言う(留萌も…)。そんな過疎の羽幌の町に2人のルチャマニア(偶然、出会ったらしい)が居るのは、ルチャファン人口密度がかなり高いぞ。いや、それ以上に6000人弱の人口に対して1000枚以上あるという、ここはマスク密度世界一の町ではないかと思う(マジで…)。私にとって48年前に天売・焼尻に渡るため前後2泊した思い出ある町。だからこそ、そんな恐ろしく遠い所から巣鴨まで来てくれた野宮氏には愛着があり、今回は予定外でここまで足を伸ばしたわけである。そんな異境での再会とマスク品評会を連夜楽しんだ後、私は函館から延々と走り続けてきた日本海と別れて内陸へ進路を取った。果たして次の昭和体育館は何処でしょうか。ではまた来週。
