
さて、今日はGスピリッツVol.77の発売日。もうお買いですか?
今回、私が取材したものの中で、このコラムでまだ触れていなかったのが、[デビュー65周年記念特集 アントニオ猪木]における証言もの。実弟・猪木啓介さんへのインタビューである。啓介さんへの取材はお兄さんが亡くなられた直後、Vol.66での大塚直樹氏との対談以来、2年半ぶりになる。今、啓介さんは「猪木元気工場」の社長をしておられる。前回お会いした途端、私の口から発した言葉は「啓介さんは、いつもお元気ですね」であった。今回もそうだ。逆に「お元気ですかー!」のカウンターパンチを貰った。啓介さんは現在77歳。お兄さんとは5歳違い。「なんで、いつもお元気なのか。何か秘訣はあるんですか」と問うと、こういう答えが返って来た。
「私はアントンハイセルをやっていた頃からいろんな勉強をさせてもらいました。後に医療関係の仕事にも就き、さまざまなことを学びました。だから私は風邪一つひいたことがありません。秘訣は一日2リットルの水を毎日飲み続けることです。それから毎日、発酵食品を摂っています。私の場合は納豆。毎日、納豆を食べています」。
取材後、私は納豆を食べるようにしている。でも、さすがに毎日は難しい。水も2リットルは飲めていないが、水分は多く摂取したい。啓介さん、頑張ります。

今回の取材で、啓介さんにお聞きできなかったことがあった。質問ではなく、お願いである。それは「NWFのチャンピオンベルトを探してください」である。1981年に封印され、2003年1月に復活したベルトを高山善廣が獲得したが、1年後に中邑真輔が奪還して封印しているわけだが、なぜかその後、行方不明になっているのだ。私はその辺に明るくないのだが、新日本とIGFの狭間でベルトが消えてしまったようなのである。これって、普通ならば有り得ないこと。猪木展が各地で行われているが、どうしても「あれが観たい!」とならないのはNWFの現物ベルトがないからとも言える。アントニオ猪木の全盛期を支えたご神体は、間違いなくNWFのチャンピオンベルトである。それを誰も真剣に探そうとしているようには思えないのだ。どっちがいいのか悪いのかよくわからないが、日本プロレス界の国宝の管理がずさんだったのにはただただ呆れてしまう。80年代頭にあれほど世間を巻き込んでまで誕生させたIWGP…その初代ベルト然りである。封印されたベルトの価値を知らない世代の管理者からすると、ガラクタ?なのかもしれないが、アントニオ猪木の真の歴史を知る者ならばそれらは数千万円の価値はある逸品といえる。逆に中に居ると、ファンに声が届かないのかも…。そうした声を私だけでなく、みなさんも関係者に届けてほしい。そして、ここはIGFの流れを汲む元気工場も、新日本も、手を取って本格捜査をしてほしいと思うのである。これが発見されたらプロレス界のツタンカーメン黄金マスクに近い偉業かもしれない。NWFベルト上陸の時代に新日本で営業をしていた猪木啓介隊長、お願いします。
啓介さん同様の新日本生え抜き…グラン浜田の追悼の企画ではユニバーサル・レスリング代表だった新間寿恒氏とザ・グレート・サスケにインタビューしている(どっちも後編)。1993年のユニバとみちのくプロレスの分裂・決裂以来、そのまま…の2人に個別に話を聞いた。今回は分裂に至るあたりを聞いている。双方の言い分を対比できるので面白いと思う。また、グラン浜田の不明瞭だったタイトル歴や壮年期の戦歴を解説文で詳しく解明しているので、記録マニアには必見。改めてリトルだけれどもグランな選手だったと認識してもらえるものと思う。

さて、先週は脱稿後を利用して飛騨高山へドライブした。どこも天気が悪くて、唯一僅かな晴れマークが出ていたのが高山だった。中央道で松本から安房峠を越えて高山へ入る。高価な熊スプレーを買ったので、シーズンオフの人の行かないマニアックな山城に3つほど登ったが、暑いのでバテバテに…。初秋とはいえ、今年はまだ夏だ。夏場の登山はもう止めよう。夜は高山市内の『寿楽久』という名店で加藤将さんと食事を共にした。日本海からの新鮮魚と飛騨牛を食しながら盃を傾けた。将さんの兄・賢さんは私の親友で、Gスピでもタイガーマスクのマスク検証の執筆を何度もしてくれた。マスクを自ら縫い、メキシコにも毎年足を運んでいた。ところが残念なことにコロナ禍の在宅ワーク中に心筋梗塞で亡くなってしまったことはこのコラムでも触れている。53歳の若さである。そして3年前の『なんでも鑑定団』正月特番で「亡き兄がコレクションしていたマスクを鑑定してほしい」と番組に出演したのが、5つ年下の弟の将さんだった。将さんは高山で家具屋さんを経営している。テレビ出演後には家具のショールームにマスクを飾る兄上のための追悼展も開催された。

「200枚くらいあるんです。でも、それをいつまでも僕が兄のマスクを持ち続けているのはどうかと。兄と交流があった方たちや、本当にほしいという方たちの手に渡ってこそ、兄が喜ぶだろうと思うんです。何かいい方法はないでしょうかね。闘道館さんを使って、何かそういうイベントが出来るといいんですが…」。こういう相談も受けた。これは何か考えないとね…。

翌日は氷見(富山県)へ行こうと思っていたが、天気が悪そうなので松本まで撤退。翌日、美ヶ原高原からビーナスラインを走ろうと計画するも、悪天候のようなので断念。そのため帰り道に必ず寄ろうと思っていた岡谷市へ。ここで月刊ゴング誌の海外レポーターをしていた大先輩である吉澤幸一さんのお墓参りをした。亡くなったのは2023年7月だったから、早いものでもう2年になる…。こちらに最初に墓参したのは2023年12月。今回改めて墓碑を見ると、父上の幸八さんが95歳の高齢で亡くなられている。「親父には子供の頃、車で日本中、いろんな所へ連れて行ってもらいましたよ。元気な父でした」と言っておられた。母上の豊子さんは91、祖母の千鳥さんが94。みんな長生き一家なのに幸一さんは74歳…。若すぎるよ。あと20年は生きて、ためになる昔話をもっと聞かせてほしかったなあ。

プロレス界では「諏訪の吉澤さん」と言われ、長く居を構えた諏訪湖東岸の上諏訪市が本拠地なのだが、生まれは西岸のここ岡谷市であった。岡谷は天竜川の起点で、うなぎの名産地でも市内には鰻屋がいくつもある。2年前の墓参の際に『うなぎ 水門』に行く。昼過ぎに立ち寄ったけど、もう品切れでクローズしてガッカリ。ここは吉澤さんにお聞きしていた名店だ。今回は開店30分後の11時半に入店できた。でもやっぱり12時過ぎには完売に…。営業時間はたった1時間10分くらいだ。“鰻倶楽部”の佐山さんに報告するために「極上」(7枚重ね)を注文すると、ごはんに乗せきれない分厚いうなぎが別皿に、さらにご飯の中に2枚埋まっていた(肝吸いとしじみ汁つき)。「もう、当分うなぎ食べなくて大丈夫」というくらいの満腹感だった。
美味しいうなぎを食べながら閃いたことがあった。「吉澤さんは子供の頃、何処でどんなプロレスを観戦したのか。多少、話は聞いていたけど、実際に現場へ行ってみよう。屋根のある“諏訪湖スポーツセンター”以前の諏訪湖周辺のプロレス会場を巡ってみるか」という飛び入りの企画だ。これを来週用(10月1日)のコラムに書き残して、明後日、『ドクトル・ルチャと行くルチャ・リブレ・ツアー2025』のためメキシコに出発します。帰国は10月3日の予定です。では、アスタ・ルエゴ。