マスクマニアたちとの羽幌での楽しい夜を三晩過ごし…日本海北上はやめて、天塩山地を越えることにした。ここからは私にとって未知の土地だ。日本最大の広さを誇る人造湖・朱鞠内湖は以前から行きたい場所、この湖に隣接する母子里地区は1978年2月17日にマイナス41.2度を記録し、日本一寒い土地に認定された。それが42年間頭から離れなかったので一度来てみたかった。ここには記録を記念した公園施設があった。朱鞠内湖では2023年5月に釣り人がヒグマに襲われて食われてしまうという悲惨な事件があった。人家はまばらで観光地ではない朱鞠内湖周辺は熊の巣窟みたいだ。

広い幌加内町から美深の町に出る。ここからさらに東へ北見山地に30km入った松山湿原がこの日の目的地だ。この最北の高層湿原(標高797m)は北海道三大秘境の一つとされ、以前からずっと登ってみたいと思っていた所(美しいかった…)。ミッションをクリアした後、一気に南下して大雪山系の愛山渓に移動する。ここから翌日、沼ノ平(標高1452m)の湿原に登る(実は、私は50年前からの高層湿原マニアなのです)。ここは大学生の時に来て以来49年ぶり2度目。今回はドローンを飛ばし、ゆっくりじっくり楽しめることが出来た。

その翌日は(ここも76年以来)“北の尾瀬”と言われる雨竜沼を目指す。ところが天気が悪く旭川へ撤退して旭山動物園で時間を潰す。翌朝午前中だけ天気が回復するのを見計らって雨竜沼へ再アタック。老体に鞭打ち、ヘトヘトで現地へ到着。ドローンを飛ばして雨竜沼の全貌を把握する(超満足!)。この3つの高層湿原巡りは今回の私の旅の目玉だったので、これで予定していたすべてミッションは熊に出会うことなく無事終了したことになる。天気もしばらく安定しないようなので、進路を南へ…ゆっくり帰路につくことにした。雨竜町から一番近い滝川市のホテルが取れなかったので、さらに南下して岩見沢で泊まることにした。岩見沢は函館本線で札幌から特急なら25分、普通に乗っても40分の距離(41km)。室蘭本線とも接続し、炭鉱全盛期には万字線(85年廃線)、幌内線(87年廃線)も乗り入れた交通の要衝であった。炭鉱全盛期の人口は6万人程。ここは札幌のベットタウン化したためか1995年の人口が最高の9万7000人になった。ただ現在は7万3000人と減って来た。岩見沢にはかつて競馬場もあった。1965年に開場したが、2006年に閉場している。郊外型商業施設の進出で私のホテルのあるJR岩見沢駅周辺は空洞化してしまいかなり寂しかった。岩見沢はゴングの元カメラマン、“パパ”こと神谷繁美くんの出身地でもある。私の旅は、ここから先、数日後の函館競馬までノープランだったので、どういうコースで函館まで戻るか作戦を練り直す。そこで思いついたのが芦別から夕張、穂別を通って得意の馬産地・日高へ抜けるという未知のルートだ。そう決めて朝、車を動かした時に頭をよぎった。「んっ、岩見沢のスポーツセンターってまだあるのかなあ」。ということで東山公園(総合公園)へ行ってみたら、あったあった!昭和丸出しの体育館がドシンと鎮座しているではないか。カマボコ型の防雪カバーのような屋根は、2022年に行った美幌スポーツセンターで見たデザインに似ていた。朝早かったので館内は入ることは出来なかったが、見るからに古豪という風格があった。


この体育館が開設されたのは1968年。プロレス興行で最も古い記録が翌69年6月7日の日本プロレス『ゴールデンシリーズ』第12戦。メインが猪木&大木vsスカル・マーフィー&エドワード・ペレス、セミが馬場vsブルート・バナードでした。これがプロレスのこけら落とし。その一週間前にインタータッグのあった札幌中島体育センターが4000人の主催者発表だったのに対して、ここは5200人だった。恐らく満タンだったと思われる。70年4月17日の『第12回ワールドリーグ戦』での岩見沢は、何とテレビの生中継だった。公式戦で猪木がターザン・タイラーを卍固めで破ったのを観た私は「猪木のWリーグ連覇か!?」と思った。メインは馬場&坂口&吉村とダッチ・サベージ&クリス・マルコフ&ネルソン・ロイヤルの再来日トリオの6人タッグでした。73年には前々回で書いたBI砲を失った日プロが道内を迷走したツアーの一環で、その最後にこの岩見沢に来ている。それは1月13日の『新春チャンピオンシリーズ』第8戦。この岩見沢で唯一とも言えるタイトルマッチが決行されている。それが坂口&吉村vsマイティ・ヤンキース1号&2号のアジア・タッグ選手権だ。前日、滝川市で行われた大木vsビリー・レッド・ライオンのインターナショナル・ヘビー級選手権はNETでも中継されたが、この日の選手権はノーTVであった。

国際は75年7月に1度、全日本は74年5月、77年6月、79年1月、82年5月に、新日本は78年7月が最初で、80年7月、81年7月、84年7月…と7月になると『サマー・ファイト・シリーズ』で来るのが恒例だった。大塚直樹さんによると「岩見沢は“帰ってこいよ”の演歌歌手・村松和子さんのお父さんの会社“北海芸能プロダクション”が買ってくれた興行です」とのこと。国際も新日本も特筆するカードは見つからなかったが、全日本の74年5月5日大会は『第2回チャンピオン・カーニバル』の期間中で馬場vsマーク・ルーイン、ミスター・レスリングvs鶴田(レフェリーストップで鶴田の負け)がトーナメントであった。神谷パパによると「スポーツセンターでプロレスを観たのは2回です。新日本はピーター・メイビアが出た試合。全日本はシンとハンセンが来たシリーズですよ」とのこと。新日本は78年7月17日、メインは猪木&木戸vsペドロ・モラレス&ピーター・メイビア、ストロング小林vsヘイスタック・カルホーン、その下で藤波がWWFジュニアに挑戦の予定もあったチャボに勝ってしまっている(実際は剛竜馬が最終戦の武道館で挑戦)。全日本は82年5月29日、『エキサイト・シリーズ』第13戦のことだろう。メインは馬場&鶴田&阿修羅・原vsスタン・ハンセン&クルト・フォン・ヘス&ロン・ミラー。セミがハイフライヤーズvs極道コンビ、セミ前がタイガー・ジェット・シン&上田馬之助vs天龍&石川。これで間違いなさそうだ(神谷パパは、なかなか記憶力がいいね)。「全日本はそれですよ。大仁田さんにサインを貰いました。その頃からカメラ小僧だったからカメラをぶらさげて試合を撮っていましたよ。地元はその2回で、あとは札幌(中島体育センター)へ行っていました。それと私の父が経営していた神谷家具の展示、即売もここでやっていました。それからハル薗田さんの南ア行きの飛行機が墜落した報が伝わった…その日の試合が最強タッグ期間中の岩見沢大会(87年11月28日)だったんですよ。その印象が強いです」。そうか、あの日が岩見沢だったのかあ…。ちなみにパパが東京に出たのが83年4月で、84年9月に『ビッグレスラー』誌のカメラマンになっている(86年にゴングに移籍)。う~ん、こういう若者がいるから岩見沢の人口が減ってしまうんだなあ…。

さて、私は岩見沢から再び北へ進路を取り、三笠から美唄(びばい)へ向かう。美唄から芦別の三段滝へ抜ける道道135号が昨年開通したので、そこのワインディングを思い切り走ってみたかったからである。美唄と聞いてオオッと閃くのは、かなりの国際プロレス通である。81年の羅臼の前日が根室、前々日が美唄のコアビバイ屋上特設リングだったからだ(8月7日)。元々、美唄は石炭の町で、現在の人口は1万8000人ほど。ピークが54年の9万人強で、国際が最後に来た81年でも3万8000人もいた。最初に美唄にやって来たのは日本プロレスだ。68年7月27日の美唄小学校クラウンド。メインは馬場&大木&ヒライvsレイ・スティーブンス&スカル・マーフィー&ジノ・ブリットで、セミが猪木vsマイク・ローレン…。まだ炭鉱が稼働していた時期だ。そういうこともあって日プロは炭鉱の町を狙う。ちなみにこの美唄の翌日は夕張北炭球場であった。美唄での次の興行が全日本…73年7月30日の美唄市役所前広場(メインは馬場&マティ鈴木vsキラー・カール・コックス&ハンス・シュローダー、セミが大木vsビル・ミラー)。ちなみに72年に美唄炭鉱が閉鎖、この73年には三美炭鉱と我路炭鉱が閉山したため、人口も一気に2万近く減った厳しい時期であった。そして81年夏の国際がスーパーマーケットの屋上。岩見沢と違って、ここにはまだ体育館がなかったようだ。

コアビバイは現存するスーパーマーケットである。現在は「JAびばい Aコープびばいコア店」という名のようだが、建物には「コアビハイ」の名前と当時のシンボルマークがしっかり残っていた。ここは全日本が興行を打った市役所前からも近い。かなり広い面積の平屋建てで、81年当時は町の中心的施設であったことが想像できる。路地からアプローチすると、メヒコのメルカド(市場)のような雰囲気が漂う。車の駐車の仕方が斜め置きで、それもメキシコっぽく思えた。アレナ・コリセオ・デ・モンテレイかのようにも見えて、私的にちょっとワクワクした。着いた時は、まだ開店前だったので、プロレス開催現場である屋上へ行くことは叶わなかった。現在も屋上は広い駐車場になっているようで、屋上へ上るアプローチもあった。

81年夏はここから若松さんの運転するリング運搬のトラックや控室として利用される移動バスもこのアプローチから屋上に上がったのだろう。「それ以外に折り畳みのイスや陣幕(仕切り用のブルーシート)を運ぶイベント屋のトラックもこの北海道巡業に来ていましたよ。ダフ屋の小林さんも(笑)」と教えてくれたのは高杉さんだ。その日のメインはジプシー・ジョーvs寺西の金網(ジョーは国際最後のメイン)。セミが木村&阿修羅vsジ・エンフォーサー&ジェリー・オーツ、その下がマイティ井上vsテリー・ギブスであった。ちなみに一行が泊まった美唄ホテルスエヒロは細い通りを挟んでコアビバイのすぐ目の前にあったから、選手たちは自分の部屋で着替えてスーパーの中を通って屋上へ上がって試合をしたのかもしれない。

このグラビアは2014年2月3日発行の『忘れじの国際プロレス』(ベースボールマガジン社)という本の中で、ラストの羅臼を扱ったページなのだが、この全景写真は羅臼ではなくコアビバイの屋上特設リングである(これ、どう見ても最果ての地・知床の小学校の校庭ではなくスーパーの屋上駐車場でしょ!)。美唄の前日、室蘭での木村vsエンフォーサーのIWAを取材したゴングの岡本哲志カメラマンは美唄大会をパスしてIWA世界タッグをやる8月8日の根室へ移動し、東スポはカメラマンが帰京。そのため美唄へ行って取材したのはベースボールの石川一雄カメラマンだけだった。この北海道4連戦(室蘭、美唄、根室、羅臼)において美唄はIWAヘビーとIWAタッグの狭間の大会であった上、最後は羅臼で団体が崩壊してしまった。だから美唄大会の写真はお蔵入りして公開されることは一度もなかったのだ。それがこんな大間違いによって世に出ることになるとは…。このグラビアを見た時にひっくり返りそうになったが、冷静を取り戻した私は、これがコアビバイ大会の雰囲気を知る貴重なワンショットじゃないかと改めて食い入った。それにしても今は亡き石川カメラマンによる炎天下での徒労がこんな形で陽の目を見ようとはね…。この美唄大会が81年8月7日。国際プロレスの余命はあと2日…であった。
