先週の水曜日は清水家にとってハッピーな日だった。私の母・み祢子が100歳の誕生日を迎えたのです。そして兄夫婦、従姉と一緒にお祝いをしたというわけ。コロナ禍以来、老人ホームもいろいろ厳重になり、予約制で月1回、15分間のみの面会。100歳なんだから、もう少し融通を利かせてくれてもいいのに…でも、やっぱ15分だった。新間さんが亡くなる1日前にお見舞いに行った時に「ウチの母が5月14日で100歳なんです」と伝えると、「おおっ、それはすごいな」と言われた。新間さんの奥様のご母堂は105歳まで生きられたと、おっしゃっていました。私の母も105を次の目標にしたい。母の長生きの秘訣は、決められた時間に3食をちゃんと摂ること。好き嫌いはなしに全部たべること。アルコールやコーヒー、炭酸類は飲まないこと…かな。この母が、子供の頃から私の好きな事を自由にやらせてくれたから、未だにやりたい放題の今の私がいるのだと、改めて感謝している。

さて、先週はルチャドールが「バタ」と呼ぶ着物風の法被を、私が80年代にレジェンドたちにプレゼントした話を書いたが、バタを最初にメキシカンにプレゼントしたのは、私ではない。我が師匠・竹内宏介さん(第2代月刊ゴング編集長)が1971年のミル・マスカラス初来日時にプレゼントしていたのだ。それは黒っぽいバタで、3月5日の後楽園ホール(&ボブ・ラムステッドvs馬場&小鹿)の時に着用している。その時の着用マスクは黒ラメに銀フチドリのタレ目のもの。黒マスクと黒バタのコーディネーションは素晴らしかった。控室では虎のマスク(通称ギザギザタイガー)を被り、バタの背中の龍を見せるポーズを撮影し、それはゴング7月号増刊 プロレス写真画報の表紙になった。これを見ると黒ではなく濃紺に見える。昔のこと…印刷の具合で違う色になることはしばしばあるが、改めて観察すると濃紺が正解のようだ。竹さんに後年聞いたところ、これは浅草で入手したとのこと。

72年夏、入谷の朝顔まつりに竹さんがマスカラスを連れ出取材した時、日本の夏と任侠映画風のカットを撮るために紺色の着物をプレゼントしている。でも、さすがにこれはコスチュームとしては使えなかったようだ。マスカラスは日本の着物に興味を持ち、72年5月の来日時には福井(同月31日)で緑生地に金糸の帯を購入した。それをメキシコへ持って帰りマントとして仕立て作り直し、次回の来日時に7月24日の開幕戦の後楽園ホール(vs小鹿)で着用している。初めての金ラメのマスクとのコーディネーションは抜群だった。


マスカラスの戦場は73年から全日本へ移行する。77年4月1日のアレナ・メヒコでのグラン・マルクスとのIWA世界ヘビー級選手権で、マスカラスは黒いバタを着用していた。法被というよりは、裾の長い着物っぽいもので、黒地に金色の雲が多数デザインされたもの。恐らくこれは同年2月の『エキサイト・シリーズ』で入手したもののようで、竹さんからのプレゼントではない。貰い物か自分で買ったのかは不明。アレナ・メヒコでは、日本帰り…自分はインターナショナルな王者であることをアピールするために、着たのであることは明らかである。この頃、頭角を現した偽の東洋人、クン・フーなどはバタがほしかったと思うな。

77年はスカイハイブームのため久々に年2度の来日。『第2次サマー・アクション・シリーズ』は越谷での開幕後、第2戦はいきなり和歌山県新宮市へ移動している(8月15日)。市内の緑ヶ丘公園事務所前という屋外が会場。その日、マスカラスはタンク・パットンと組んで初期の鶴龍コンビと対戦している。2021年、新宮へ行った時にここを探してみたが、住宅街になっていて公園らしきものすら発見できなかった。マスカラスはこの時、新宮市内にある熊野三山(2004年に世界遺産に登録)の一つ、熊野速玉大社へ参拝している。私は今年の3月に息子と一緒にブルー・デモン号に乗ってここを訪れた。新宮にはもう何度も来ているけど、速玉大社は初めてである。「ああ、48年前にここでマスカラスがポーズを取っていたんだぞ」と言うと、息子は笑っていた。私の息子はマスカラスと仲良く、子供の頃からMMの素顔も知っている。メキシコでは手を繋いで歩き、一緒に甘すぎるケーキを食べた仲だ。

その後、私たち那智の滝と青岸渡寺、那智大社へ行く。「ここには俺がマスカラスブラザースを連れて来たんだ(82年7月22日)。そこの欄干に上ってテンションあげあげでポーズを取っていたよ」と息子に伝えると、「よくこんな所まで連れて来たね」と感心していた。その写真は以前ここでアップしたので割愛する。さて、この77年の夏、マスカラスは新宮から神戸、尼崎、高槻、多治見と関西、中京地区を回った後、一度帰京。そして銀座東急ホテルの自室で火消し半纏を見せびらかしている。背中には「一番」の文字。これはまた竹さんがプレゼントしたのかと思いきや、そうではないとのこと。21日と22日のオフに都内の何処かで入手したのか。そして23日の秋田県鹿角市大湯体育館でのvs高千穂明久で、その火消し半纏を着て試合をしている。

77年といえば、ミル・マスカラス・ファンクラブ『エル・アミーゴ』の絶頂期。実はこのシリーズのマスカラスにオリジナルのジャンバーをプレゼントしようと作製中だったのだ。それは来週触れるとして、我々のファンクラブは、テレビ出演や雑誌、新聞に多く取り上げられた。そのため毎日毎日、何十通もの入会希望の手紙が届いて我が家はパニック状態になる。これ以上入れると会報もコピー不可になるし、発送も出来なくなるので、制限を作って入会を押さえた。それから40年近くなって、ある方(Aさん)からこんな話を聞いた。「私もエル・アミーゴに入りたかったんですが、お断りされたんです(苦笑)。エル・アミーゴは少年時代の憧れでした」。実は近年、こういう方にアチコチで声を掛けられる。たぶん年齢制限をしていたからだろう。私が大学生で、その時期、断られた人たちは中学生だったかもしれない。そうした人たちは今、50の後半から60台になろうとしていて、中には社長さんや会長さん、立派なポジョンに就かれた方たちもいる世代である。前述のAさんは「私は手紙ではなく、どうやって調べたのか、失礼ながら清水さんのご自宅にお電話で掛けて入会をお願いしようとしたんです。そうしたら清水さんは不在で、電話口にお母様が出て来られて“大変ごめんなさんね。今は入会をお断りしているんですよ。申し訳ございません”と、とっても丁寧にお断りされたんです。いいお母様だなあって感じで、入会を断られても清々しい気持ちでした」と話してくれた。私の母が私の知らない時に、そんな対応をしてくれていたのか…。50年近く経過して初めて知った母の姿に、今、改めて感謝する。

ということで、次回は『エル・アミーゴ』が贈呈したメキシカンたちへのプレゼント着について、第3弾として書こうと思う。なので、もう一週お付き合いを。