こう次から次へと人が亡くなると、気持ちが追い付かなくなる。永島オヤジ…元東スポ新日本担当で、新日本へ移って仕掛人をした後、WJ他へ…ゴマ塩の永島勝司氏が亡くなった。永島さんとは、いろんな思い出がいっぱいあるけど、その後にメキシコから浜やん(グラン浜田)の訃報が届いた。「ええっ、このタイミングで逝っちゃうの!?」と思った。マイティさんの追悼原稿を書き終わったばかりなのに…。永島さんと浜田さん…2人を天秤にかけると、コラムでも書けないことの多い永島オヤジが浮き上がって、このくらいは書いてもいいだろうと思われる浜やんの秤が沈んだ。

ということで、浜田さんの事を書かこうとする。あまりにいろいろあって、どの時代の何処を切り抜こうか、けっこう難しい。亡くなったばかりなので刺激の強い話は避けて何かお世話になったことを考えてみると、やはり私が初渡墨した1979年の話がいいだろう。グラン浜田と言えば、やっぱりメヒコに限る。スペイン語も喋れず、右も左もわからない最初のメヒコでは浜田さんにお世話になったのは確かだ。今から46年も前の話だが、私の記憶が最も鮮明な冒険心満載の取材旅行である。以前から何度も書いているようにミル・マスカラスに連れられて、彼が借りているマンションの一室で旅装を解く。マンション名は「コアウィラ」。その2棟となりが「テクパン」という浜田さんの住むマンションだった。挨拶に行った時の第一声は「おお、取材に来たのか。それより何か日本から本を持って来ていないか。漫画でもいいよ。日本語の文字が読みたくてしょうがないんだよ」。日本を出てから3年半…日本から来た人たちにこう言い続けてきたのだろう。こういう環境だと、そうなる気持ちはわからないでもない。私は松本清張の『砂の器』の文庫を持っていたので貸したら、3日くらいして戻ってきた。「もう読んだんですか」「ああ、読んだ」「どうでした?」「いや。別に」。感想は無かった…。それが最初に感じた浜田さん“らしさ”だった。

ご近所だから私は浜田さんの車でエル・トレオ、パチューカ、トルーカなどへ連れて行ってもらった。あれはパチューカだった。浜田さんがセミで試合が終わると、「おい清水、帰るぞ」ってメインの前に帰ろうとする。メインはソリタリオ&ウラカンvsレネ・グアハルド&カネックの好カードじゃないか。なのでウラカンに頼んで帰ることにすると、「お前は付き合い悪いな」と言われた。よく長女のソチをアレナに連れて来ていたが、まだ8歳。帰り道の話し相手がほしいのだ。こういうこともあった。「ウチで魚を食って行けよ。この間、釣って来た鱒があるんだ」と言われる。眠いから遠慮すると、「お前は本当に付き合い悪いな。竹内さんに言いつけるぞ」と来た。仕方なくお付き合いする。後にこの魚を一緒釣りに行った邦昭さんが食べる段になって「光熱費を払え」と言われたらしいが、私にはタダで食べさせてくれた。

パチューカの翌日にベラクルスへ行った。ベラクルスはメキシコシティから飛行機で1時間20分のフライト。飛行機にはエストレージャたちがいっぱい乗っていた。空港からはタクシーに分乗して会場のアウデトリオ・ベニト・フアレスへ(試合開始21時30分)。私の乗ったタクシーは浜田さん以外にビジャノス(1&2&3号)が乗っていた。三兄弟は車中も大騒ぎしていたが、アレナの100メートルくらい前でマスクを被り出し、50メートル前で降りた。彼らはルードだからである。ちなみにこの日のカードはセミ前が浜田&アニバル&エストレージャ・ブランカvsビジャノス。セミがソリタリオvsドクトル・ワグナーのシングル。メインがボビー・リーvsウルトラマンのUWA世界ウェルター級選手権。その控室で、浜田さんが私にこう言った。「明日、ここにいる選手たちはハラパとポサリカに分かれる。俺を含めて大半の選手たちは近場のハラパへバスで移動する。1時間半くらいかな。ソリタリオだけはポサリカへ行く。バスで田舎道を7時間かかる。試合後はポサリカからメキシコシティまで6時間掛けて深夜バスで帰る。で、お前はどっちへ行きたいんだ?」。私は即座に「ポサリカに行きたい」と言うと、「お前は本当に付き合い悪いなあ」と呆れられた。確かにメンバーもカードもハラパの方がいい。同じ州でもベラクルスとポサリカは南北離れていた。それでも私はUWA事務所に貼り出された週間のカード表をチェックした時からポサリカ行きを決めていた。バットマン(前身はエル・マルケス)が見たかったからだ。すると浜田さんはソリタリオに「彼を同じホテルに泊めて明日一緒にポサリカに連れて行ってほしい。頼んだよ」って言ってくれた。そう言われなくてもソリタリオとは前週のアカプルコで仲良くなっていたし、ベラクルスからポサリカに行きたいことも伝えてあった。それでも浜田さんが自らそう頼んでくれるのを見て“ありがとう”と感謝した。私を気遣ってくれたからである。私と浜田さんはあの時からずっと「お前は付き合い悪いなあ」と言われながら、その距離感を保ちつつ、接してきた。メヒコでも日本でも、いろんなシーンでの感謝は忘れないです。最後は遠いメキシコで散ったけど、愛する娘たちと暮らせたことが幸せだったのではないかと思う。赤城おろしはメヒコの風になった…。昭和を代表する最後の小さな豪傑に、改めてご冥福をお祈り申し上げたいと思います。