先日の関西外語大学での公開講義で超懐かしい人にお会いした。岡野三津茂さんである。大阪在住の岡野さんは『悪魔仮面』→『エル・アミーゴ』の関西支部長。最近、Facebookで繋がったので、「もし、お時間があったら外語大に見に来てください」と頼んだら快く来てくれたというわけ。
お会いするのは46年ぶりだと思う。あれは1978年8月31日、大阪府立体育会館でのミル・マスカラスvsエル・アルコン。一緒にマスカラスを騎馬で担いで以来である。
あの府立体育会館の前日は住之江会館で我々主催のイベントを開催したら100人以上のファンが集まってくれた。岡野さんが地元のファンクラブに声を掛けてくれて、いろいろ尽力してもらったお陰である。彼は4つ年上で、放浪大学生の私と違って、もう立派な社会人として商売をされていた。藤波辰巳が凱旋帰国した直後に「岡野さん、藤波のファンクラブを作りませんか」と半ば強引に頼んで会長になってもらった。それが『飛竜 ドラゴン』である。
『エル・アミーゴ』はというと、その年の暮れに解散した。竹内さんからの勧めだった。「エル・アミーゴは十分以上に頑張ったよ。このピークに止めたほうがいいんじゃないか」と。そう言われたのはマスカラスvsアルコン戦の後の大阪ロイヤルホテルであった。確かに日本一のファンクラブになったという自覚はあったし、私も大学4年で来年は卒業…。はっきりは言ってくれなかったけど、それは竹内さんからの“プロへの誘い”のプロローグだったのかもしれない。なのに『飛竜 ドラゴン』を押し付けた感じで、岡野さんには申し訳ないと思っていたのは確かだ。その後も岡野さんはずっと会長として長きにわたって同クラブを運営した。それはそれで感謝しかない。いや、岡野さんへの感謝は、それ以前からある…。
岡野さんは大学卒業の旅行にメキシコへ行っている。1975年3月の事である。会員としてメキシコへ行ったのは彼が初めてである。当時のメキシコは今よりも遠い国で、今以上にデンジャラスだし、そこでプロレスを観るということは並大抵ではない。岡野さんはツアー客が闘牛へ行ったのと別行動でアレナ・コリセオへ行ってルチャ観戦をしている。それでロス、ハワイ経由で羽田に着いたのは23日。白金台の私の自宅にも寄ってくれて、大量のメキシコ雑誌をプレゼントしてくれた。それが私の人生を変えた。わからないスペイン語をわかろうと必死になってその雑誌を隅々までむさぼり読んだ。それぞ、まさしく“ドクトルへの誘い”であった。会報の内容もマスカラスのものよりメキシコ研究ものが増えていく。「俺もメキシコへ行ってルチャをもっともっと勉強したい」という気持ちにさせてくれたのは、間違いなく岡野さんのメキシコ行きと、プレゼントされた雑誌のお陰である。
コリセオ実体験レポは生々しかった。
改めて当時の会報の岡野さんのメキシコ観戦レポートを読み直してみる。3月15日にサンフランシスコからメヒコ入りして、翌16日は日曜日。テオティワカンを見学後に、現地ガイドの友人たちと合流してコリセオへ向かっている。第2試合はエル・ポラコvsミステル・スティール。82年6月に新日本に来日したポラコ。まだマスクを被っている時にポラコを観たのは岡野さんくらいであろう(ポラコは同年9月のプエブラでエストレージャ・ブランカに敗れてマスクを脱ぐ)。第3試合はフラマ・アスールvsマヌエル・ロブレス。翌年、ナショナル・ライト級王者となるフラマだが、それよりマスク職人として日本のファンには名が知れ渡った(82年、フラマがマスクを取られるのは私が観ている)。ロブレスはクロネコの叔父さんでEMLLのメインマッチメーカーである。第4試合はロス・ヘメロス・ディアブロ(ツウィン・デビルス)vsブラック・シャドー&トニー・ロペス。ヘメロスは同年5月1日にプラサ・デ・トロス・メヒコでドクトル・ワグナー&エル・アルコンに敗れてマスクを脱いでいる。その1ヵ月半前…マスク姿の彼らを観られたのはラッキーだったといえる。そしてメインはエル・マルケス&エンリケ・ベラ&アドニス・ロマノvsカルロフ・ラガルデ&エル・ナシ&ラウル・レイジェスの6人タッグ。飛びの美しさはナンバーワンと言われるマルケスを観られたのもラッキー。なぜなら、彼はこの直後に旗揚げしたばかりのUWAにジャンプし、7月16日のパラシオでアニバルに敗れてマスクを脱いでいるからだ。
このように改めてリサーチすると、日曜日のコリセオだから決していいカードだったとは言えない。この2日前のアレナ・メヒコではマスカラス&ワグナーvsアルフォンソ・ダンテス&TNTが組まれていたし、次の金曜日のアレナ・メヒコにもマスカラスは出ていた。でも、決められたツアーの日程でそれがピッタリ当たるとは限らない。情報は入らないし、運もある。それよりもあのコリセオの異次元空間に身を委ねられたという経験こそが一番だったと思うのである。ちなみにこの時期、ゴロー・タナカ(鶴見五郎)はまだメヒコに居たが、干されて地方を回らされていた。それもこれも、私の後付けの知識であって、岡野さんがこの時に先達をしてくれなかったら、私の方向性も定まらず、レールに乗ったとしても、もっと出遅れていたはずだ。そういう意味で岡野さんには感謝しかない。先日、関西外語大学でお会いした教授は一人でコリセオに観戦しに行って、帰り際に暴漢たちに囲まれて身ぐるみを剥がされたとおっしゃっていた(危険とは言うけど、実際の被害者に会ったのは初めてだ)。故に来たる8月のメキシコツアーは安全で、中身をディープなものにしなくては…と思う。コリセオですか…行きますよ。