さて『GスピリッツVol.70』はテリー・ファンク追悼特集であると先週お伝えした。今日はその続きを書こうと思っていたら、意外な話が飛び込んで来たので、そっちを先に書こう。先週の金曜日のアレナ・メヒコの試合後(日本時間の土曜日の午前中)、現地在住の加治屋典子さんからメールが届く、「フエルサ・ゲレーラから清水さんへの伝言を頼まれました。1月15日から30日まで家族と日本に旅行に行くので、その期間中にファンミーティング(トークショー&グッズ即売会)が出来ないか、との相談です」。私は即座に「出来るよ」と伝え、さっそく闘道館へ連絡して仮押さえした上で、折り返しフエルサに連絡。そこからはトントン拍子。フエルサと直接、メール交換が始まり、電話までかかってきた。
「トマス、元気かい。アニベルサリオの時はゆっくり話も出来なかったなあ。来年1月に妻と娘と孫の4人で日本に遊びに行く。完全なプライベート旅行だよ。娘はルチャドーラをやっているイハ・デ・フエルサ・ゲレーラ(フービーの妹)だよ。イベント会場を押さえてくれてありがとう。楽しいショーにしよう。ここからは随時、連絡を取り合おう」
今年のアニベルサリオ。試合前、トゥネル(トンネル)と呼ばれるアレナ・メヒコ前のオフィシャルグッズ販売所でフエルサを発見。しかし、すごい数のお客で揉みくちゃになって話をするのは不可能な状態だった。隣のブースにいたオクタゴンも同様だった。
私とフエルサの付き合いは長い。最初は1981年のアカプルコだったか。試合前のある昼間、オルノス海岸で泳いでいるフエルサと会ったのが最初だった。その頃、“黒鬼小僧”ネグロ・カサスとの抗争は日本なら若き日の越中詩郎vs三沢光晴みたいなマスコミにも評判の前座の名勝負数え唄で、81年9月18日のアレナ・メヒコでの彼らの一戦は最優秀空中ファイト賞を受賞した。それも前座の第2試合がこんな高い評価をされたのは異例中の異例であった。彼は私より3つ年上で、小鳥の餌の会社も経営していたから、私は「シャチョー」と日本語で呼んで、冷やかしたものだ。最初に会った頃はメキシコ連邦区のチャンピオン。東京23区王者みたいなものだったけど、83年にはメキシコ・ナショナル・ライト級、85年には同ウェルター級王者となり、88年にはNWA世界同級王者にまで昇りつめた。90年6月にユニバに初来日した時には世界王者。6月7日の後楽園ホールで行われたイホ・デル・サントとのUWA世界同級選手権は、もし勝てば両団体同時制覇の快挙だった。
日本には来たのは6回。
1990年6月 ユニバーサル
1994年1月 FMW視察(試合なし)
1996年5月 PWC
2000年7月 CMLL JAPAN
2007年9月 トリプレSEM
2019年3月 エストレージャ・フィエスタ
EMLLからAAAに移籍した際にはアントニオ・ペーニャ代表の参謀長だった。頭が切れたので、ペーニャが登用したのだ…シャチョーは随分偉くなった感じがしたよ。94年の視察に際にはペーニャ、イホ・デル・サント、オクタゴンとともにゴング編集部にもやってきた。やはり参謀だからである。その後、AAAの子会社プロメルのボスとなり、AAAから独立してプロモ・アステカを作って対抗したり、策略家として智謀の限りを尽くす。その後もCMLLに出たり入ったりを繰り返して最終的に古巣に帰って来た。ドス・カラスが引退し、ミル・マスカラスもほぼリタイアに近い。ソラールはレジェンド大会などで時折りリングに上がるが、引退してない現役のベテランはCMLL所属のエル・サタニコ、アトランティス、オクタゴン、ブルー・パンテル、フェリーノ。フリーではブラック・テリー、ネグロ・ナバーロ、エル・パンテーラ、アギラ・ソリタリア、ロッキー・サンタナ、シュー・エル・ゲレーロあたりか。そしてこのフエルサ・ゲレーラ…。特にフエルサは未だ現役バリバリ。そして何よりもルードとしてこれほど長くマスクを取られずにいるエストレージャは彼しかいない。マスカラス兄弟、ティニエブラス親子、ソラール、エル・ファンタスマらはリンピオ(テクニコ)のスターが故にマスクを脱がないでいるのはわかるが、フエルサは違う。46年間同じリングネームで同じデザインのマスクを被ったままのルードである。息子のフービー(フベントゥ・ゲレーラ)ですら脱いだのに親父はずっとマスクをキープし続けている。これはルードとして、間違いなく大のつく記録保持者(現在も更新中)。それもデビューから数十年1度もリンピオになったことがないのも彼だけであろう。あのサタニコやネグロ・ナバーロでさえ、リンピオの経験者だ。大半のルードが一度はリンピオに鞍替えして、また戻る。ルード一徹…これも“決して客に媚びない男”フエルサならではの記録である。
フエルサはデビュー当初からデポルティボ・マルティネス製のマスクを被っていた。途中、ラウル・ロメロやブシオを使った時期もあったが、その後はラ・フリア製を愛用していた。しかし、フリアが亡くなるのを前後して、彼は自分でマスクを作り始めた。ルチャドールとマスカレーロの二刀流である。現在は自分のものだけでなくいろんなルチャドールから注文を取っているようだ。今回のGスピの取材をしたマノ・ネグラもフエルサ・ゲレーラ製のマスクを使用していた。
「1月21日には自分のマスクやTシャツの他、マノ・ネグラとかいろんなマスクを持っている予定なので楽しみにしてほしい。出来るだけ安く提供するつもりだ。楽しみにしていてくれ」とのこと。
私は今日から伊賀と北美濃の山々に踏み入ります。冬眠しない熊に出会わない、ベアハッグをされないようにしたい。もし、熊に食われたらば、22日発売のGスピの私の原稿とこのコラムは絶筆となり、このフエルサのイベントは……。そうならないよう願いたいものだ。来週が今年最後のコラムの予定…もしアップされていたら、生還したということ。そのコラムではさらに次なるイベントの情報をお知らせしたい。