日曜日の朝、まだベッドの中にいたら、メキシコの友人ジョシーマン(ホセ・アントニオ・ラミレス)からメールが届いた。「元気ですか?」と来たらムニャムャしながら「元気だよ」と返す。すると突然、スマホの動画…テレビ電話になる。我々の通信手段はWhatsApp。日本ではあまり普及していないが、lineみたいなもの。メキシコ人の大半はWhatsAppを使用している。それはさておき、画面に映し出されたのは、ざわざわしたイベント会場のようだ。なんじゃ、これは?「ジョシー、何だよ、これは?どこだよ、そこは?」と返すと、「トマスに会わせたい人がいるんだ」と画面が振られる。そこに映し出されたのは、ナント、“黒い弾丸”ドレル・ディクソンとそのファミリーだったのだ。
「オオオオッ、ドレール!」と思わず叫んでしまった。「元気か、トマス」…と言うディクソンの声には張りがあった。今年88歳…生存が確認できるプロレスラーの中で、最年長(?)とも言われている(成否は未確認)。「トマス、あなたの結婚式以来だね。何年になる?」。1984年だから39年ぶりである。「ワォ、39年かあ!」。
ディクソンには本当にお世話になった。84年にメキシコで結婚式を挙げた際、神父の資格を持つディクソンがカトリック信者でない私たちのためにメキシコシティ中を駆けずり回ってモルモンの教会を探してきてくれた。彼の努力が無ければ、私たちの結婚式は成立しなかったのだ。そんな大恩人なのに、あれから数えきれないくらいメキシコへ行っていても、40年近く会っていない。引退してプエブラで静かに住んでいるのは知っていたけど…。
今年2月1日、88歳の誕生日を迎えたディンソンの写真を見て、元気そうなので「会いたい」と思った。昨年、妻が亡くなり、それを報告するために、今年9月にディクソンの家に行く計画を立てた。9月のメキシコ取材の最大の目的はそれだった。実際に孫娘さんと連絡が取れて、向こうが都合のいい日が私のメキシコ滞在最終日に決まる。プエブラへ行くアポが取れて、足も確保した。プエブラまでは車で約2時間。東京から甲府くらいの距離か…。実際、プエブラには富士山に似たポポカテペトル山もあるし、途中に談合坂のような峠道もある。そんなドライブも楽しみにしていた。ところが車を出してくれるクリスチャン・シメットが当日になって急用が入って行けなくなってしまう。それで肩を落としていた私をジョシーマンは知っていたから、この日、テレビ電話で繋いでくれたのだ(たまにいい事をやる…)。
これはマスクのコレクターたちが集うイベントのようで、ディクソンとティニエブラス、そして名マスク職人ラヌルフォ・ロペスの孫のアレハンドロ・ロペス・レイジェスがゲストで呼ばれていた。マスクマンではないディクソンがスペシャルゲストとしてプエブラから来たのは、彼がティニエブラスのデビュー戦のパートナーで教育係だったからであろう。1971年8月20日、アレナ・コリセオ。暗黒仮面のセンセーショナルデビューは黒い弾丸と黒い影法師ザ・ブラック・シャドーの3ブラックで固められたのである。
「今度はいつメヒコに来るんだ。来年?必ずプエブラに来てくれよ。待っているからな」とディクソン。「家族みんなで待っているよ」「トマスと会うの楽しみにしているわ」「ご馳走作って待ているね」とディクソンの息子さん、娘さん、孫娘さんが次々に画面に現れて手を振ってくれた。寝起きの私はディクソンファミリーのテンションに圧倒される。どうやら私たちの結婚式にも来てくれたディクソンの奥さんは亡くなっているみたいだ。でも子供や孫に囲まれて88歳のディクソンは幸せに暮らしているように見えた。ジョシーマンに聞くと「ちゃんと歩行も出来るし、トークショーでも流暢に喋っていたよ」。新間のおとうさんより1ヵ月早く生まれたんだね。とにかく昔から健康には人一倍、いや何倍も気をつける人だったから、今も元気いっぱいなのだろう。仏壇の妻にも「ディクソンに会えたよ」と朝イチで報告する。それにしても40年前は国際電話がバカ高くて大変だったけど、今はタダで、その上に映像まで見られて、話すだけでなく会えちゃうんだから恐ろしい時代である。生きていて良かった…。お陰で39年の空白が一気に埋まった。今秋は目的達成できなかったので、来年こそは必ずプエブラへ行って元気なセニョール・ディクソンに「生」でお会いしたい。何とか実現しなくてはね。