ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第630回】信州の優しき兄貴が…

 私はまた大きなものを失ってしまった。私の大事なプロレス業界の先輩である吉澤幸一さんが7月29日に長野県諏訪市のご自宅で亡くなった。心筋梗塞だった。享年73歳。まだ若い…。8月2日に親族だけの葬儀が行われ、生まれ故郷の岡谷のお寺に埋葬されたという。これは業界向けの第一報である。奥様に幸一さんが亡くなったことを書かせていただいていいか許可を頂いての執筆であるが、あまりに重くてペンが進まない…。

70年代海外ファンの情報源だった吉澤さんの連載。

 吉澤さんを知らない方もいると思うので、簡単に紹介しておく。というか、1974年別冊ゴング7月号から「吉澤幸一の海外ジャーナル」を長らく執筆、連載していたので、そこにあるプロフィールを引用させてもらう。

『昭和25年5月24日、長野県出身。いまや貴重な力道山時代からのプロレス・マニア。本誌にとって有力な海外情報の窓口ともいえ、そのペンパルにはジョージ・ナポリターノ、スコット・ローマー、ラウル・ゴメス・デ・モリーナ・ジュニア、ビル・アプター、マイク・グラッチェナー、ジョージ・ウイルキンス、ゲーリー・カメンサック、ジム・コルネット、ボブ・ルイズといった第一線で活躍するアメリカのリポーターやカメラマンが揃っている。東京のビックマッチにもよく出向いて取材に当たり、日本のニュースを広めることに余念がない』

有賀城から望む諏訪湖と吉澤さんの故郷上諏訪の町。

 吉澤さんが竹内(宏介)さんと会って親しくなったのは72年頃のようだ。竹内さんは71年に櫻井康雄さんと渡米してから、アメリカマットの魔力にとりつかれ、常時現地からの情報や写真を必要とした。その供給源となったのが全米に張り巡らされた吉澤ネットワークだった。「海外に強いゴング」の旗印を掲げて他誌を圧倒したのは吉澤さんの力によるところが大きい。70年代の竹内&吉澤幸一は最強タッグだったといえる。アメリカマットでの激闘がゴングの誌面に躍る。当時、日本の印刷技術、紙質は世界一だった。特に大日本印刷と凸版印刷の業界二強が本誌ゴングと別冊ゴングを刷っており、ゴングのグラビアの仕上がりは他の追随を許さなかった。米国のプロレス専門誌は質の悪いザラ紙。だから前出の米国リポーターたちは高度な印刷技術と紙質に舌を巻き、ゴングに自分たちの写真が掲載されることを誇りに思っていた…と吉澤さんは話してくれた。それも世界各地のプロレスを満遍なく載せる…ゴングは業界専門誌世界一という自負があった。竹内さんも「幸一さん、幸一さん」と吉澤さんを大事にし、逆に吉澤さんも「竹さん、竹さん」と言って、3つ年上の竹内さんのプロレスへの情熱と企画力と仕事っぷりに敬意を表していた。

吉澤さんのホーム、諏訪湖スポーツセンター。

 吉澤さんは私の尊敬する大事な先輩だった。先輩であり心優しき兄貴的な存在だった。歳は6つ違い。私が『エル・アミーゴ』の会長時代も、ゴングに入ってからもずっと目を懸けてもらっていた。「清水さんはゴングの他の人とはいろんな意味で違ったよ」。それがなぜなのか私にはわからなかったが、仕事を超えた部分でもお付き合いをさせてもらった。私の新婚時代には妻と一緒の長野へ旅行した際、吉澤さん親子と北八ヶ岳をハイキングしたことがある。「プロレス以外の部分で話せる、付き合える。そういうところが違うのよ」。地元信州が大好きだから、長野に来てくれることを何よりも喜んだ。諏訪湖スポーツセンターに行った時も歓待してくれたし、桑原城に登った報告も喜んでくれた。

竹内さんが亡くなってからは、ゴング関連の昔話が出来るのは吉澤さんしかいなくなったので、私も大事にしなければ…と思った。このコラムの大の愛読者で、毎週水曜日の夜には「今日の読みましたよ。面白かったですねえ」「あんな話、全然知らなかった…」とかそんな切り口で数時間お話した。長い時は5~6時間お話させてもらった。それが十数年続いた。それがお互いの血肉となる。もちろんGスピリッツの大ファンで、本が届くたびに連絡をくれた。「今回の特集は読みごたえあったねえ」「あの写真良かったよ」とか、そこからまた数時間、お話をする。特に一番、長い時間をかけて話したのは馬場さんのこと、猪木さんのことだろう。互いの馬場観、猪木観を何度ぶつけ合ったことか。私が好きな山城の事も興味を持ってくれて、現地の新聞の記事を送ってくれたり、諏訪の市役所へ行って調べものもしてくれた。メキシコマットの事情も私の話に耳を傾け「この歳になって初めて知ったけど、システムはアメリカよりも凄い国かも…」と関心を寄せてくれた。以前、私は有志達を引き連れて吉澤さんに会うために白樺湖、塩山、諏訪で3度合宿した。吉澤さんは我々の宿を訪ねてきて宴の席で楽しい話をたくさん披露してくれた。コロナもあったから、最後にお会いしたのは2019年6月の諏訪合宿になってしまった…。

これが吉澤さん(左)との最後の宴となった。

 吉澤さんは控えめな性格で、俺が、俺がという部分はない。だから自慢話をしたがらないが、聞けば吉澤さんしか知らないあっと驚く体験が多い。特にハンセン、ブロディ、ファンクス、デストロイヤー、ブッチャー、ガニア、フリッツ、レイス…。日本人選手もいっぱい…とにかく交友関係は広い。そんな吉澤さんから教えてもらったプロレス秘話を、機会をみて少しずつ公開していければと思う。それで吉澤幸一の偉大さと果てしないプロレス愛が伝えられれば…と思う。諏訪からいつも私の身体を気遣い、仕事ぶり、生き方までを優しく見守ってくれた吉澤幸一さん…本当にありがとうございました。たぶん、信州の上空で竹内さんやウォーリーと出会って談笑をしていることだろうなあ。そこには馬場さんや猪木さんもいるだろうか…。諏訪の兄貴のご冥福を改めてお祈りしたい。諏方南宮上下大明神。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅