先週、調べが足りなくて触れられなかった日本プロレスの闘牛場開催をもう少し遡ってみる。力道山時代には1957年1月、62年11月、63年4月に沖縄をツアーしているが、闘牛場での試合はなかった。ただ、64年11月22日の『プロレス秋の陣』、沖縄・那覇市の首里那覇闘牛場が使われた。これが日本初の闘牛場プロレスであろう。豊登&馬場vsザ・モンゴル&ストロハイムのアジア・タッグ選手権をやっている。沖縄全域にはかつて13の闘牛場があったといわれているが、次第に闘牛開催が減少して闘牛場が消えていき、現役はうるま市の石川多目的ドームだけのようである。64年の頃にはまだ那覇市内にも闘牛場があったということだ。
それはそうと、宇和島の鯛は身が引き締まって美味かったなあ。宇和島は「じゃこ天」も有名で、偶然行った山城の麓に有名店の工場と店舗があったので、お土産を買って、新間さん宅にもお送りした。では改めて宇和島のプロレスについて紐解いてみよう。66年10月3日、日本プロレス『ダイヤモンド・シリーズ』の天赦園グラウンドが最初か。メインは馬場&吉村&大木vsゴリラ・モンスーン&ボブ・ボイヤー&マンマウンテン・カノン。時代背景的に言うなら、東京プロレスの旗揚げ直前のことである。天赦園とは市内にある宇和島藩の第7代伊達宗記が隠居地として造営された池泉廻式庭園。宇和島伊達家とは仙台の伊達政宗の庶長子(側室の子)の秀宗が将軍徳川秀忠より言い渡され、遠いこの地で初代藩主となったのが始まり…。この天赦園での日プロ大会から9年間、宇和島ではプロレスが行われていない。次の宇和島は75年1月20日、場所は何と宇和島市営闘牛場。ここを初使用したのは、国際プロレスであった。
宇和島市営闘牛場はこの75年に全国に先駆けて完成した全天候ドーム型の闘牛場。なお天井の中央の丸い空洞だ。ここから雨が降りこむから全天候でないのでは…と思われるが、さにあらず。ここには円形のジョーゴ型のビニールとテントを釣り上げて空洞部分にはめ込み、もし雨が降っても中央のホースから館内の排水口に流されるというシステム。私が今回、訪問した時に現地の有志たちが「5月場所」に備えて、この天井部分テントとビニールを吊り上げる予行をしていた。竣工から今日まで天井の円形の穴を埋めずにずっと伝承されてきた方法であった。闘牛やプロレス開催時の天井からのジョーゴは先週のコラムの「オラが町に…」の大写真を見てほしい。
愛媛県南部・南予地方の闘牛は鎌倉時代に行われたという説があるが定かではない。ただ幕末の安政年間(1854~1860年)には興行化されていたという古文書が残っている。和霊神社に闘牛用の土俵があったようだが、戦後DHQによって闘牛は禁止され、その後の再開、衰退、復興を繰り返し、存続への苦労が多々あったようだ。宇和島市営闘牛場の完成は南予の闘牛関係者と闘牛ファンの悲願であった。宇和島の闘牛は観光目的として生き残る。先週触れた全国9ヵ所の闘牛場との「全国闘牛サミット」が98年から持ち回りで行われ、昨年の宇和島大会が第25回であった。闘牛のチャンピオンカーニバルみたいだなあ…。
市営の宇和島闘牛場の完成は1975年3月だという。国際が興行を打ったのは同年1月20日。とすると完成前の会場を使ってプロレス興行を先にやったということなのか…。メインは田中忠治&マイティ井上vsダニー・リンチとブッチャー・リンチ(英国の猛牛コンビ?兄弟ではない)。セミが草津vsボビー・スローター。その下がラッシャーvsボブ・オートン。「カウボーイ」の父親はロデオ場ではなく日本の闘牛場で試合をしていたことになる。井上さんにお電話したら、「宇和島の闘牛場でしょ、憶えていますよ。私はその時、(IWA世界の)チャンピオンだったです」。井上さんはスペインの闘牛場で試合をしている。「マドリードは違いますが、バレンシア市の会場は闘牛場でしたよ。71年夏、清見川さんから連絡を受けてギャラは安いけどマドリードからバレンシアへ移動したんです。清見川さんに連れられて田中(忠治)が西ドイツから来るというんでね。それ以前にはシャチ横内もここに来て試合をしていたようです。そう、清見川さんと一緒に闘牛も観ましたよ。プロレスは闘牛ショーが終わった後にやるんです。だから控室の横に死んだばかりの牛が転がっていました。客は闘牛の時ほど入ってませんでしたね(苦笑)」。プラサ・デ・トロス・デ・バレンシアの初代は1798年~1859年と古く、2代目のこの闘牛場は1859年に新築されたキャパ12000人(闘牛開催時)。記録によると71年8月20日、井上&田中はモデスト・アレード&ペドロ・カブレーラからスペイン・タッグ選手権(?)を獲得している。「ああ、ベルトではなくトロフィーだったかなあ…獲ったような記憶がありますねえ。たぶんそれが私の初戴冠でしょうね(笑)」。つまり、そのバレンシア闘牛場でタッグ王座を獲った井上&田中が4年後に日本の宇和島闘牛場のメインで再合体した!というドラマには誰も気づいていない…。
その75年の宇和島に話を戻そう。この年、もう一度宇和島の闘牛場でプロレスがあった。全日本である。7月13日に全日本がここを初使用した(1月の徳之島の亀津でもやっているから年に2度闘牛場で興行をしたのは全日本だけだ)。メインはデストロイヤー&アントン・ヘーシンクvsボビー・ダンカン&ジェリー・ブリスコ(ダンカンは全日と81年新日でここに来たことに…)。セミが馬場vsボブ・レムス(“ビューティフル”・ボブ・リーマス)。レムスは正月に国際に来たボビー・スローターだから、彼は1年に2度宇和島闘牛場で試合をした唯一のプロレスラーということになる。このリーマスはAWAでスーパー・デストロイヤー・マークⅡに変身して80年6月にミネアポリスで馬場のPWF王座に挑戦している(5年前の宇和島で前哨戦?をしていたわけだ)。そのミネアポリスの3ヵ月後に彼はニューヨークで軍曹に昇級している。サージャント・スローターの誕生だ。さらに1年後、鬼軍曹は私が取材した81年の新日本の宇和島に登場した。そう、スローターは国際、全日、新日の3団体の宇和島闘牛場で試合をした唯一の来日ガイジンということになる。どれもセミに登場して草津、馬場、藤波とシングルで当たっている。またこの75年の宇和島では鶴田vsチャボ・ゲレロも組まれていた。チャボはエルパソでデビューして間もないので闘牛場は未経験かも。もしやってたとしたら国境を越えたシウダ・フアレスのアルベルト・バルデラス闘牛場か…。
全日本はその後も宇和島のこの闘牛場をよく使っている。76年~80年の毎年、そして82年、87年、88年…(79年11月は馬場がNWA王者として登場)。全日本が宇和島は勿論、愛媛全域に強かったのは馬場さんと宇和町のうどん屋さん池田博氏との絆があったからだと思われる。この関係については以前に書いたことがあるので、ここでは省かせてもらう。ちなみに宇和島市営闘牛場は新日本の97年5月29日が、女子では98年7月1日の全女が最後のようだ。毎年4月末にこの闘牛場で開催されていた「全日本大学選抜相撲 宇和島大会」(公式戦)は弁天町で出来た宇和島市総合体育館に移行してしまい、2000年代にはプロレス興行もこの総合体育館を使うようになった。昨年12月10日に新日本がここで試合をやったばかりだ。SHO(田中翔)は宇和島の出身だから地元凱旋試合であった。彼は89年生まれだから、8歳のときに97年の新日本の闘牛場大会は観ただろうか…。闘牛場自体は健在なのにプロレスをやらなくなった…。闘牛の開催は年間わずか4日のみ…何か寂しいなあ。
話をメキシコの闘牛場に移す。エル・コルティホ闘牛場は、メキシコシティの国際空港にも近いロメロ・ルビオというダウンタウンにあって、古くから毎週日曜日にルチャの定期戦が打たれていた。大都市にある主要な2~5万人クラスの大闘牛場と違って2~3千人クラスの小さなプラサ・デ・トロスである。宇和島と同じくらいのキャパか(宇和島市観光物産協会によれば定員2500人だとか…でも、詰めればもっと入りそう)。私も数回、ここで取材しているが、それ以外に別の縁がある。98年春先にゴングで「ドクト・ルチャと行くメキシコルチャ観戦ツアー」を企画した時、最初の会場がコルティホだったのだ。
事前にマスカラスにツアーの趣旨を伝えた上で「アナタのメキシコでの試合をツアー客に見せたいんだ」と言うと、「いいよ、何とかする」と言って、“我々のため”に定期戦ではない特別興行をここで開催してくれたのだ(そうとはいえ一般客も入れていた本物の大会)。当然、日本のツアー客は全員リングサイド。骨を折ってくれたプロモーターはブラックマン2号だった。メインはマスカラス兄弟&ヘビー・メタルの6人タッグで、アビスモ・ネグロ、カト・クン・リー、エル・シグノ、ネグロ・ナバーロらAAAを中心としていろんな選手をかき集めてくれたように感じた。マスカラスはその夜、無償で食事会に来てくれたし、マスクが欲しいというツアー客の希望で翌朝、100ドルの安価で譲ってくれた。いい人バージョンのマスカラスだった…。コルティホにはそんな思い出がある。
小林邦昭&高杉正彦の両氏をゲストにしたビバ・ラ・ルチャは12日後に迫って来た。来週はこのコルティホ闘牛場と小林邦昭についてレポートしてみたい。