私は子供の頃からシークが好きだった。ゴングの誌面で観た“アラビアの怪人”ザ・シャイク(当初はこう表記されていた)のグラビアに釘付けになり、『プロレスアワー』で動くシークの怪しさに心を揺さぶられたものである。1950年代にあのスタイルを確立し、全米を震撼させ、次年代のブッチャーやシンなどに強い影響を与えた…すごい人物だと思う。シークがデトロイトの興行権をジム・バーネット&ジョニー・ドイルから買ってプロモーター業を始めたのは64年11月。今日は『第3回チャンピオンベルトカーニバル』では時間がなくて紹介できなかった小泉悦次氏が作製したザ・シークのデトロイト闘争年譜を紹介しよう。60年完成のコボ・コンベンション・アリーナの収容人員は1万人強。日本なら武道館に相当する。そこで2週間に1度(土曜日夜8時半~)興行が打たれた。アナタは2週に1度のペースで武道館へプロレスを観に行けますか…。シークはそれを実行していたのだ。手を変え品を変えしながらカードを工夫して15年間、客を入れ続けたのである。

1965年
2月6日、シークはジョニー・バレンタインからUSヘビー級王座を奪取。ここから自作のシーク時代が始まる。以下、この年に行われたシーク絡みのUS選手権、それ以外のノンタイトルの主要な対戦相手、抗争相手をざっくり列記してみる。
ヘイスタック・カルホーン、アート・トーマス、ボボ・ブラジル、マーク・ルーイン、スウィート・ダディ・シキ、ジョニー・パワーズ…。
1966年
ヴィットリオ・アポロ、ビル・ミラー、ジョニー・パワーズ、ロード・レイトン、エドワード・カーペンティア、イゴール・ボディック…。
1967年
ボボ・ブラジル(いよいよ抗争本格化で、それは毎年ずっと続いていく)、アーニー・ラッド、ジョニー・パワーズ、キラー・カール・コックス(仲間割れの末…)、フレッド・カリー、ボブ・エリス、ドン・レオ・ジョナサン。
1968年
ブル・カリー(仲間割れの末)、マーク・ルーイン、ブルドッグ・ブラワー(仲間割れの末)、ロード・レイトン、イゴール・ボディック。
1969年
ジェス・オルテガ、エドワード・カーペンティア、ロッキー・ジョンソン、ジェリー・グラハム、サンダーボルト・パターソン、ダニー・ホッジ、イゴール・ボディック、ビリー・ワトソン、ルー・テーズ。

1970年
ロード・レイトン、フレッド・カリー、ヘイスタック・カルホーン、ブル・カリー、ロード・レイトン、アーニー・ラッド、ルイス・マルティネス、ボボ・ブラジル。
1971年
テックス・マッケンジー、ザ・ストンパー(ガイ・ミッチェル)、ボボ・ブラジル(5月29日シークが魔神に敗れて王座転落)、タイガー・ジェット・シン、ブル・カリー、イゴール・ボディック。

1972年
トニー・マリノ、ジャック・ルージョ、ダン・ミラー、ジョニー・バレンタイン
ボボ・ブラジル(12月30日 黒い魔神からシークUSを奪回して4度目の戴冠)。
1973年
※1月13日 ブラジルが奪取して9度目の戴冠も2週後にシークに奪回。
ジョニー・バレンタイン(NWA挑戦者決定戦)、ドリー・ファンク・ジュニア(2月24日=NWA世界に挑戦)、チーフ・ジェイ・ストロンボー、ベアキャット・ライト、パンペロ・フィルポ(仲間割れの末に抗争開始)。
1974年
パンペロ・フィルポ、トニー・マリノ(3月2日にUS奪われるも16日奪回)、マイティ・イゴール、アーニー・ラッド、アンドレ・ザ・ジャイアント、ディック・ザ・ブルーザー(65年と71年~に2度興行戦争を仕掛けてきた生傷男と和解して双方のボスがリング内で抗争へ。8月31日からUS戦とストラップマッチを含むシングル5連戦)、※12月21日にアブドーラ・ザ・ブッチャーと初タッグ。

1975年
パンペロ・フィルポ、アブドーラ・ザ・ブッチャー(仲間割れ後、5月3日からシングル3連戦の抗争)、ボホ・ブラジル(4月19日にブッチャーからボボがUSを奪い、それをシークが7月5日に奪取=9度目の戴冠)、ハンク・ジェームス、マーク・ルーイン(9月27日US移動)、パンペロ・フィルポ。
1976年
ボボ・ブラジル(5月15日にシークUS奪還。10度目)、マーク・ルーイン、パンペロ・フィルポ、ドン・デヌーチ、アンドレ・ザ・ジャイアント、サンダーボルト・パターソン、ハンク・ジェームス、ザ・スポイラー、トニー・マリノ。
1977年
※1月、ブッチャーとのタッグ再結成。ボボ・ブラジル、ジノ・フェルナンデス、ダスティ・ローデス(シングル4連戦)、テリー・ファンク、※ブッチャーと組んでファンクス(9月3日と16日に連戦)、アブドーラ・ザ・ブッチャー(仲間割れの末、10月15日と11月12日に対戦…月末に呉越同舟でオープン・タッグへ)、クラッシャー・ブル・ベドウ、ピーター・メイビア。

1978年
オックス・ベーカー、ハーリー・レイス、ミル・マスカラス、テリー・ファンク、マイティ・イゴール。

1979年
マーク・ルーイン、ジノ・フェルナンデス、ニコリ・ボルコフ、ボブ・バックランド、ディック・ザ・ブルーザー、アーニー・ラッド。
1980年
※3月1日、ブッチャーと組んでファンクスと(金網)、マイティ・イゴール(US4戦、一度奪われるも奪回)、ディック・ザ・ブルーザー、※6月28日に世界タッグ王座決定トーナメントで馬場&鶴田が奪取。シーク&キラー・ブルックスとも対戦。
この直後にシークのオフィス(ビッグタイム・レスリング)はクローズする。78年の第二次オイルショックによりデトロイトの自動車産業は打撃を大受け、かつて1万近い動員が当たり前だったが、その頃から客足は減少していた。あれほど忙しかったシークが長期で日本遠征が可能になったのもそのためである。自動車も小型で性能の良い日本車に押されてアメ車の販売数も落ちてしまう。そんな時期にデトロイトへおっとり刀で行った馬場&鶴田は白い目で見られたかもしれないなあ。それはともかくとして、すべての試合にUSのベルトが懸かったり、メインだったわけではないが、15年間シークを中心に団体がまわったことは間違いない。その間、どれだけの血が流れたであろうか。バスタブ1杯分くらい??? シークが死して丸20年…久しぶりにすごい流血戦が観たくなったなあ。
「マキ、マキ!」