ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第582回】馬と私(3)

 プロレス話を離れて、お馬さんと私の関りを幼少期からずっと書いてきたわけたけど、ここが一つのハイライトか。北海道の馬産地にある新冠ユースホステルで知り合った三谷さんと松原さんと「日本縦断牧場ツアー」に出発したのは1978年3月。発端は彼らと話し合って「北海道だけでなく、内地(本州)や九州の馬産地に行こう」となり、「それなら北海道から出発して全部みて回ろう」となったから。当時の競走馬の生産は北海道が7割で、3割は道外。我々は新冠を基点にして九州を目指し、その間にある有名・無名牧場を訪ねて、協会に種牡馬登録されている種馬をすべて観てまわろうという壮大(?)な、いや、クレージーに計画だった。北海道の競走馬の産地は大半が日高地方に集中しているが、一部の道東(標津、小清水、弟子屈)、十勝、胆振、渡島に牧場が点在している。我々は雪の胆振、渡島を南下して函館からフェリーで大間へ。下北半島の牧場群をみて、かつて大馬産地だった七戸、五戸、十和田、八戸、階上周辺に点在する有名牧場を一つ一つ落としていく。寒いけど、お金がないので毎日が車中泊だった。ちなみに東北自動車道は全線開通しておらず、開通部分も金がないから出来るだけ乗らないようにした。

雪の青森では二冠の名馬メイズイに会う。感激!

 岩手県は紫波町と一関の山間部。宮城県で牧場があったのは鳴子温泉付近と加美町。福島県は葛尾村、田村町、小野町などの山間部に牧場がポツポツあり、どこにも無名の種馬がいる。栃木県は那須周辺が昔から馬産地として有名で競走馬の生産牧場が点在する。茨城県は美浦のトレーニングセンターはまだ完成しておらず、我々が行った1ヵ月後に開場している。茨城の牧場は稲敷あたりに少しあった。かつて新冠にいた英国ダービー馬のラークスパーにもここで再会。千葉県は明治に設立した宮内庁下総御料牧場があった大馬産地で、やや衰退傾向にあったものの富里や成田市周辺に名門牧場が集中していた。何処の牧場も突然現れた我々に嫌な顔一つせず応対してくれ、大事な種牡馬を馬房から引き出してくれたり、放牧地で馬を捕まえてくれた(感謝)。そんな変わり者が他にいなかったからかもしれない。さらにはお茶やお菓子の接待も受けた。牧場の人たちは一応に「えっ、九州まで行くの!?」と驚いていた。宮内庁御料牧場は成田国際空港建設のために69年に閉場になっている。ちなみに我々がツアーで成田を訪れた2ヵ月後に成田国際空港が開場した。白金の自宅で数日間、鋭気を養い、我々は川崎からフェリーに乗って宮崎へ渡る。当時、千葉よりも西の本州に種牡馬を置いている生産牧場はなかった。そのためにフェリーで馬産地の九州までスキップしたのだ。ナビはないけど、資料類はちゃんと揃っていて、計画は綿密だった。

カローラフォンテンと九州での朝昼食の風景。

 宮崎に上陸すると、東京から有志が2名、電車で駆けつけてきて合流し、計5人に…。“白い逃亡車”「カローラフォンテン」と名付けたオンボロ車にギューギュー詰めで移動しなくてはならなくなった。そのため車中泊は無理に…。九州では安宿を探して車中泊組と分宿した。毎日千円ずつみんなから集めてガソリン代と食費に充てる。基本、一日二食。コンビニなんてない時代だから乾物屋で食パンと魚肉ソーセージを買ってブランチ(晴れていれば野外で)。夜は当時唯一全国チェーン展開していた「どさん娘」で味噌ラーメン。来る日も来る日もそれが我々の“飼い葉”となった(酒は飲まない)。宮崎県は延岡と綾町付近に牧場がある。鹿児島は今でもそれなりの馬産地で、大隅半島の岩川、大崎、志布志、鹿屋あたりに牧場が点在していた。都井岬の岬馬(野生馬)、長崎鼻にいたトカラ馬など、競走馬以外の日本固有の馬も見てまわったのは、我々にお馬さんへのリスペクトがあったからだ。

宮崎県の都井岬では岬馬が近づいて来た。

キツい旅だが、毎日、いろんな馬に会え、北海道と違う個性的な牧場を訪ねてお話を聞く楽しみは格別であった。熊本では水前寺の町中の民家の狭いガレージに飼われていた種牡馬ダイイチオーに会う(彼は出張する種馬だった)。そして阿蘇、豊後竹田を抜けて大分市へ。ここで2人が電車で帰京し、私たちは佐賀関からフェリーで愛媛へ渡る。高知市に超マイナー牧場が2軒あって、そこで超マイナー種馬を撮影。牧場めぐりはここまで…。趣味の旅というよりもやっていることは明らかに取材か冒険に近かった。その後、徳島県池田市に居た高校時代の教師の家に泊まり、淡路島を渡って兵庫へ。私は従兄弟の家に居候して、数日後に阪神競馬場で桜花賞を観戦。我々のツアーは仁川で解散となる。私は新幹線で帰京し、カローラフォンテンのオーナーの三谷さんは日本海沿岸を走って北海道の新冠まで帰って行った。私の青春はプロレスと馬の二刀流だったといえる(メキシコに初取材に行ったのは日本縦断牧場ツアーの翌年)。

鹿児島県鹿屋の田原牧場で名馬オリオールの姉とご家族たちと。

 その後、日高は勿論、青森、千葉、鹿児島へは個別で何十回も足を運んで取材(?)を続けた。この時代、こんなクレイジーなことをやっていたのは私だけなのでは…という自覚症状がある。それはゴング(日本スポーツ出版社)に入ってからも続く。いや、その前にプロレスではなく、競馬関係に就職するかもしれないということがあった。77年からゴングの竹内宏介編集長とは懇意にしており、私は竹内幕府の御家人、あるいは旗本のような立場にあった。実際、ゴングで連載を持っていたし、取材レポートも書いている竹内さんの手駒だった(ここでも馬…)。でも79年の就職時期に「ゴングに入れて下さい」と頭を下げてお願いする勇気がなった。それより少し前、竹内さんの口から「この世界は潰しがきかないから一度、別の世界を見ておいてほうがいい」と聞いていたのが、最終的にプッシュできない原因だった。

それで私はJRA(日本中央競馬会)の会社説明会へ行っている。大学の4年間を丸々遊んでいた私が受かるわけのない巨大企業だが、勝手に「ここでは自分の才能は発揮できない」と思い込み、試験は受けなかった(馬券も買えなくなる…)。次に当時、新宿区東五軒町にあった『サラブレッド血統センター』という出版社へ飛び込む。ここには白井透さんというゴングの竹内さんのような名編集長がいた。同出版社では『サラブレッド血統大系』、『競馬四季報』、『日本の種牡馬録』、『スタリオンレヴュー』など多くの血統関連の書籍の編集・出版をしていた。残念ながら、新卒の募集をしていないということなので、やんわりと断られたが、実は白井さんにマンツーマンでお会い出来てお話が聞けただけで満足な私がいた。もしもである、もしも、そこで採用されていたら、私は間違いなくプロレスマスコミの世界にいなかった。自惚れかもしれないが、違う世界のドクトルになっていたかもしれない…。

 仕方なく大学の掲示板に貼ってあった「さくらXレイ」(小西六メディカル)という会社(レントゲンフィルムと自動現像機のセールス)に就職する。それは放射線技師だった親父を少しだけ喜ばすためだけで、1年くらいで会社を辞めて金を貯めてまたメキシコへ取材と調べもののために行こうと思っていた。だから会社など何処でもよかった(特に営業はまったく自分に向いていなかった)。80年末に竹内さんから緊急招集が掛かる。「いざ鎌倉」ならぬ「いざ白山」…81年正月から私は月刊ゴング編集部員になった。そこから先の話は、このコラムでいろいろ書いてきたし、トークショー他で語って来たので、みなさんの良く知る私です…。竹内さんは私が毎年、遅い夏休みを秋にとって馬産地へ行っていたのを知っていた。ある年、「今年の夏休み(10月)は家族でロスへ行きます。妻子はユニバーサルスタジオ、私は世界一の競馬(ブリーダーズカップ)を観戦しに行くためです」と言ったら、「そんなに競馬が好きなんだあ」と呆れられた。プロレス漬けの私にとっての癒しは馬だった。まあ、編集部の仲間たちも、私がどの程度の馬好きなのか、今回書いてきた話ほどは知らないだろう(私も興味を示しそうもない人には決して話してこなかったので…)。

 そんなことで日高に出入りして数十年経つと、ある地区の知り合いの牧場や関係者から「先生」と呼ばれるようになった。私が垢抜けた血統知識を持っていたからか、馬産の歴史的なことに詳しかったからか…毎日毎日、馬に関わって生活している人たちにとって、異色の存在に映ったのかもしれない。今まで誰にも話してないが、こんなことがあった。日高の浦河という町に有力種牡馬を多数供用するスタリオンステーションを有し、種付け権や競走馬の売買を斡旋し、保険業務などを手掛ける商社から「事務局長になってほしい」という依頼があったのだ。後にも先にもたった一度だけ受けたヘッドハンティングである。「給料は100万円、新築の家と新車付きで…」という破格の好条件。“ホントかい!?”と疑ったが、かなりマジの様子。でも、私は即、断った。子供が幼稚園に入ったばかりだし、何よりもその時、私は週刊ゴングの編集長だった(ど真ん中!)。それを放棄してまで、そこに飛びつくつもりは微塵もなかったからだ。仲介した知人に「えっ、なぜ、断るの?」と言われた。相手には私の「立場」がなかなかわかってもらえなかった。いや、毎週編集に追われている身にとって、そこにチャンネルを入れる余裕すらなかったのは確かだ。ここでの「もしも…」や「タラレバ」は止めよう。

妻は600キロ近い種馬にも怯まなかった。

 私の足が日高から遠のいていったのは、昔のように自由に牧場に入れなくなったからだ。競馬ファンが急増して見学は「競走馬のふるさと案内所」という施設を介するようなった。それにより見学時間まで出来て、制限がやたらと厳しくなってしまったからである。近年の競馬人気がそうさせたのだから、それはそれで仕方ないと…“俺の時代は終わったな”と思った。でも、今年、久々に日高へ行った理由は2つある。一つは妻が生前に「来年(今年)、日高にまた行きたいね」と言っていた約束を守ること。そしてもう一つは、私の狂気の血統を受け継いだ息子が馬の世界にハマってくれたからで、「お前にも馬産地からの目線で競馬を見てほしい」「馬だけじゃなくて、この広大な北の大地で働く多くの人たちありきで競馬が成り立っている」を感じてもらいたかったからである。残った父と子の絆は大事にしなくては…と思った。再び火が点いたよ、“第二の故郷”へはまた息子と一緒に行こうと思う。ということで、「馬と私」…ドクトル・ルチャのマスクに蹄鉄が配置され、馬が躍っている姿がデザインされている意味がおわかりいただけたであろうか…。この馬シリーズは(完)。

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