ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第574回】久々に観たシュートとは

 先週予告したように5月31日に後楽園ホールで行われた『ジャンボ鶴田23回忌追善興行』を観戦した感想を書こうと思う。あれは3月頃だったか、戸口さんから「5月31日に引退試合をすることになったので、観に来てください」と電話をもらっていた。それがジャンボの追善大会だと言えば、あの名古屋での65分の死闘を生観戦した者としては見届けなければならないであろう。ジャンボとはあの前年の1977年からの、戸口さんとはあの78年からの、長いお付き合いである。

最後なので記念に戸口さんと撮影をした。

 私がジャンボと親しくなったのはファンクラブ「エル・アミーゴ」の時代。ジャンボは旅先で暇なのか、控室の中が嫌なのか、私がマスカラスのファンクラブの会長とわかっていて控室から少し離れた所でこんな話をしてきたのを思い出す。「ねえ、清水くん、あのマスカラスって、目を回されるのを極端に嫌わない?僕がジャイアント・スウィングをしようとすると、いつも両足に抱きついてきてやらせないんだよ」。そんな話をまだ大学生だった私にしてくる優しい気さくな人だった。「それ、僕も気づいていましたよ。今度、掴まれる前に一気に振り回してしまうか、エアプレン・スピンで担いでグルグル回して見たらどうですか?」。「おおっ、それいいね。次にマスカラスと試合したら、試してみるよ。ありがとう」。知らぬうちにジャンボペースに引き込まれていた。その時はただの雑談かと思いきや、ジャンボはマスカラスのファンクラブ会長から仮面貴族対策のヒントを聞き出していたのである。

あれは北上の家畜市場だったか、何処か東北のリング上で「行くよ、清水クン」って声を発して、飛行機投げをマスカラスにグルグルやってのけたのだ(リングサイドで写真を撮っていた私は超恥ずかしかった…)。後日、「やっぱ、目を回される嫌みたいで、しがみついてきたよ(笑)」と報告を受ける。何も考えてないでナチュラルに試合をする天才レスラーかと思っていたけど、実はいつもいろんなことを考えて、研究しながら試合を組み立てる人なのだということがわかったのは、その時からである。

それから数年後、私がゴングに“就職”してプロになったのをとても喜んでくれたのはジャンボだった。その後も選手とマスコミという感覚ではなく、昔と変わらず友達みたいな感覚で親しげに接してくれた。

 時が流れる…あれはジャンボが最強と言われた90年頃だったか、たぶん松戸市運動公園体育館の控室前の通路だったように思う。そこで1対1になった時のこと。ジャンボは長椅子で何かを読んでいた。「鶴田さん、何の本を読んでいるの?」、「おお、清水くんか、経営の本を読んで勉強しているんだよ」、「何かを経営されるんですか」、「うん、引退後を考えてね」、「引退?」、「いつまでもプロレスやっていられないから、その日のためにね」、「どんな商売を?」、「焼肉屋をやろうかなと思っているんだよ」、「えっ、焼肉ですか」、「そう、肉は単価も高いけど、それだけ実入りも大きい。高品質で低コストの仕入れ先を見つけることが第一。店の立地と広さ、清潔さも大事だね。あくまで一つの選択肢だけどさ。でも、まだ内緒だよ」。意外な話を聞かされて、その日から私は「プロレスに就職した」鶴田友美さんの未来をいろいろ想像するようになった。

山梨の鶴田さんの墓には6度も行った。

 焼肉屋さんの夢は叶わなかったけど、ジャンボはもっと大きな第二の人生を歩んだ。そして病魔に倒れて帰らぬ人に…。私は塩山の鶴田さんのお墓に6度行っている。天龍さんを連れて行ったこともあるし、戸口さんを連れて行ったこともある。最後に行ったのは、ジャンボのファンだった私の妻を連れて行った時。戸口さんの場合は「一度行きたいから連れて行って」と頼まれていて、Gスピの取材を絡めてのことだった。

 そう、今回、戸口さんから電話をもらった時、「最後はツームストンをやってね。あと、キウイロールもみたい」とリクエストしておいた。実際、フィニッシュはツームストンを見せてくれたが、試合後、「失敗したよ。と言うか、相手がボディスラムの形も身体を突っ張るからさ。上手く決められなかったよ。キウイロール?ありゃ無理だった。相手も受けられないよ」と私にぼやく。それよりかキラー・バティ・オースティンばりのスライディング・レッグロックは2度見せてくれた。分かっているお客が「おっ、出た。懐かしい!」と唸っていた。トップロープに上がろうとした所を越中にデッドリードライブをやられるシーンは、少しヒヤッとした。コーナーに上がりきってないのに投げようとしたから、タイミングが少し早くて足が最上段のロープに引っかかれそうになる。それでもぎりぎりセーフで大きなバンプを取り、客の歓声を受ける。ただ攻めだけでなく、受ける場面を大事な仕事とする選手は、もうなかなか存在しない。74歳でそこまでしなくていいのに…でも、やるというのが“プロフェッショナルの流儀”なのであろう。ただ、試合後の長いマイクは不要だったと思う(来場したタニマチや知人の紹介と感謝を述べ続ける)。あそこは馬場さん、ジャンボ、竹内さんへの感謝の言葉にしてほしかったよ。

タイガー戸口が最後にコールされた。

 それよりもこの日、一番興味深かったのが戸口さんの試合前のセレモニー。ここで花束贈呈の3人目にターザン山本氏が登場した。すると戸口さんは何か怒鳴り散らしてターザンを殴り倒し、蹴り上げた。メガネが飛んだ。それでも立ち上がってヘラヘラと花を渡そうとするターザンを再び戸口さんがぶっ倒したのだ。お客たちの顔を見ると、みんな余興を楽しむように喜んでいたが、私は真剣だった(写真撮るのもの忘れたくらい)。“多少の手加減はしているけど、これ、シュートじゃない!それもプロが素人に仕掛けたシュートだよ”。ターザンは照れ隠しのようにヘラヘラしながら立ち上がって、最初からやりたかったのであろう「オッーッ!」というパフォーマンスをして、ゴロゴロ転がるようにリングを降りる。ターザンご本人は“戸口さんらしい挨拶”と受け取ったと思ったのだろうが、やっぱり実際は違った。

 私は翌日、その事を電話で戸口さんに確かめてみる。

「なんの打合せなんてないよ。第一、俺はアイツが花束持って上がるなんて知らなかったし。俺はアイツが大嫌いだからさ。週刊ファイト時代から。それにクソ素人なのにプロのリングに上がって試合したりしてさ。まさか、俺の前に出て来ると思わなかったから、びっくりしたのはこっちだよ。聞こえなかった?俺はアイツに“この○○野郎!”って怒鳴ったの。そう吐き捨ててぶっとばしたんだよ」。そうとは知らず、いきなり手を出されたターザンはとんだ災難だったと思う。ただ、「野生の虎」がこの日、野生化したのは、この一瞬。それが最後に見られたのは、私にとって大収穫であった。ちなみにこの人、対戦相手の渕くんも大嫌いなのだ(だからこの絡みはほとんど無かった)。実に好き嫌いの多い老虎である。

全日本OBがみんなでウォー!

 ターザンといえば、この2日前にターザン後藤(後藤政二さん)が亡くなり、大仁田が遺影を持ってテンカウントゴングが捧げられた。このターザンにも思い入れや思い出はいっぱいある。まだ、58歳でしょ、若すぎるよ(とても心の優しい人物だったので、超悲しかった。ジャンボの付き人をしていたんだよねえ…)。この日は戸口さん、後藤さん、鶴田さん…全部で30カウントのゴングを聞いた。最後のジャンボのセレモニーにはカブキさん、小橋さん、田上さん、渕くん、川田さん、天龍さんがリングに上がった。2本の杖で歩行し、やっとのことでリングに上がり、やっとのことでリングを降りて去っていく、天龍さんの背中には一際大きな拍手が送られた。盟友でありライバルであるジャンボのために必死になって来てくれた…その姿にはジーンと来るものがあった。恐らく、これがこのメンバーで集まれる昭和全日本最後の同窓会だったような気がした。それぞれのセレモニーがかつて元子さんに鍛えられたスタッフたちによる卒ない演出で進行された…“ああ、来て良かったなあ”という興行であった。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅