ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第564回】旗揚げ年の記録(2)

先週、このテーマでコラムを書いたのは、Gスピリッツの次号(Vol.63)がこういう特集だからでした。今日もその続き。そう、先週北沢さんの「背骨折り」という記録がどんな技なのかわからないと書いたが、木曜日のストロング小林追悼興行で北沢さんにお会いしたので訊ねてみた。

「それですか、担ぎ上げるバックブリーカーではなく、メキシカン・ストレッチですよ。そうそう、変型のアバラ折りです。ちょっと今、足が悪いんでやれないけど、今度、掛けてあげますよ。その頃、ずっとその技をフィニッシュにしていましたから」

たぶん、この技の事だろう。

北沢幹之とミル・マスカラスのメキシカン・ストレッチ。

北沢さんはメキシコで覚えて来た技というが、新日本旗揚げの前年2月、ミル・マスカラスが初来日でこの技を本邦初公開している。北沢さんは同シリーズを全休していたが、猪木のセコンドには毎回付いている。他のメキシカンはあまり使わない技なので、ここで見て覚えたのかもしれない。リバースフルネルソンの形のストレッチよりも、これもマスカラスが使ったノーマルなフルネルソンから足をフックしたストレッチのほうが効果的と思われるのだが…。

さて今日は『オープニングシリーズ第2弾』の記録から紐解いてみる。シリーズの14戦中、アントニオ猪木のコブラでのフィニッシュは5回あり、体固めが4度。たぶんブレーンバスターからの体固めが多かったのでは…。この時期のブレーンバスターは直角で滞空時間が長そう。大会場の仙台・宮城県スポーツセンター(5月22日)では卍固めをフィニッシュに使った(タッグマッチでラシアンズAに)。ローカルではコブラを出せばお客が喜ぶ。アントニオ猪木のコブラツイストは日プロでの4年半のテレビ放送で全国的に浸透した代名詞のような技。そうした上でノーTVとはいえ仙台のような大きい箱では卍を出して特別感を与える…こういうその場に応じた演出がいかにも猪木らしい。

旗揚げ年の新日本にはストーリー展開やトピックがなかった。続く『オープニングシリーズ第3弾』、『ニュー・サマー・シリーズ』は話題もなく、ただ淡々とローカル試合をこなしていくしかない。テレビだけでなく、団体に核となるタイトルがないからストーリー展開が出来ないのだ。「マスコミの取材も東京近郊とか、たまにしか来なかったですよ」とリングアナだった大塚直樹氏は言う。本部席にいる大塚氏の横は記者席になっていたが、空席のことが多かった。72年のゴングの新日本の取材も関東近郊に限った。猪木vsゴッチ以外はモノクログラビアばかり…。

7月23日開幕の群馬・館林市体育館は、急遽8月26日に変更されたため、開幕戦が7月24日の豊中千里インター横広場になってしまった。まさかの野外での開幕戦だ。この時など、館林へ行く予定だったゴング誌は慌てて大阪へ飛んでいる(ここを逃すと一行は北海道へ飛んでしまう)。この夏のシリーズは他にも8月15日の津山が中止になり、19日の鶴見が新横浜に、22日の一関が花巻に変更になるなど、アタフタぶりが見て取れる。ただ、東京プロレスの時の中止の多さに比べれば、新日本の営業は善戦していたといえる。

旗揚げから半年が経過しても、3団体の中で新日本はどう見ても最下位…。ゴング誌の扱いもやはり日プロ、国際、新日本の順だった。興行をやればやるほど赤字はかさみ、いつストップするかわからない状況…こういう厳しい時代を新日本は歩み続けていたのである。そんな中、猪木さんは真面目に一つ一つの試合に向き合った。それが後々、地方プロモーターやファンへの信頼に繋がっていくのであろう。

『ニュー・ゴールデン・シリーズ』で一つの変化が現れた。ここまで猪木は全戦でメインを張り、シングルは旗揚げ初戦のゴッチ戦以外、60分3本勝負で行われてきたが、このシリーズからシングルは60分1本勝負になった。9月26日、銚子でのシン・リーガン戦、28日の岐阜でのリーガン戦、10月4日蔵前でのゴッチ戦、9日広島でのレッド・ピンパネール戦、10月10日大阪でのゴッチ戦、22日直江津でのリーガン戦…そのすべてが1本勝負だった。

旗揚げシリーズ第1弾ではジム・ドラゴと3戦、インカ・ペルアーノと3戦やっていて、これは60分3本勝負で2-0のストレート勝ち。シリーズ第3弾の7月4日、姫路でタッグながらも猪木は3本勝負で初めて1本を奪われた。取ったのはエディ・サリバンだ。ゴッチ以外で猪木から最初にピンを取ったのはサリバンということになる。猪木が3本勝負で1本取られたのは前年12月4日、仙台のマードック戦以来のこと(UN戦)。『ニュー・サマー・シリーズ』のシングルは7月27日、旭川のディック・ダン戦のみ。これは2-0勝ち。ここからシングルの3本勝負は暫くやっていない。

72年の年内最後の『ニュー・ダイヤモンド・シリーズ』。全試合タッグだが、11月13日の大津では新日本での初ジャーマンで勝利している(フランク・モレルに放つ)。特にテーマのないシリーズなのだが、ここでなぜジャーマンを出したのか? 大入りだったからサービスしたのか、何か理由があるはずだ。シングル対決こそなかったが、エースガイジンのジョニー・ロンドス(同年1月、チャールス・ベレッツの名で国際に来日)との攻防は見応えがあったよと竹内さんに聞いた。テーマが見えない戦いを強いられた猪木だが、それでもモチベーションを下げずに試合の中で何かを試そうという努力も見られる。セコ・バックブリーカー(鎌固め)もその一つ。74年には弓矢固めとして決め技のレパートリーの一つに加わるが、この時点ではゴッチの技の見様見真似の域。リバース・インディアンデスロックの形から、足を抜かずにバランス悪く決めようとしている。

72年の猪木の弓矢はまだ不完全。

この技は何処から来た技なのだろうか。ヨーロッパからの流れならばゴッチやホースト・ホフマンに見ることができ、カナダからならばドン・レオ・ジョナサン、ホブ・ボイヤーが使い手。ボイヤーは66年9月に日プロに初来日し、69年1月の再来日では開幕戦でミツ・ヒライにこれを決め、猪木とも戦っている。新日本旗揚げシリーズ第2弾に3度目の来日をした時、やはり開幕戦で「背骨折り」(柴田勝久に)を出しているが、それもこの鎌固めだったのかは調べが回っていない。もちろんメキシコのジャーベにもこの技はある。メキシコでは「ラ・チャマキーナ」などと呼ばれて50年代には使われている。

チャマキーナ…フックの仕方がパーフェクト。

 テレビのない72年の新日本において、日々の試合を淡々とこなすしかない猪木だが、そんな中で試行錯誤しながら技を磨いていた…そんな時期だったように思う。そんな貪欲な姿勢が次なるステップに繋がっていったのだろう。新日本プロレス…栄光への難産…まずは来週水曜日発売のGスピリッツにご期待ください。

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