今日は先週、発表になった次回のトークショーについて書こうと思う。VIVA LA LUCHA Vol.56として宍倉清則氏をゲストに招いての『そこに国際愛はあるんか――』についてである。12月29日(日)『闘道館』という大晦日の前々日…という日程をみても、緊急決定したのだということをお分かりいただけると思う。23日(月)発売のGスピリッツVol.74での『シッシー、国際LOVEを語る』の連載最終回を、まだみなさんは読んでいないわけだけれど、映画で言うならば制作秘話、プロダクションノートのようなことを先行公開したい。
このGスピリッツの連載を宍倉氏=アナクラ氏(47年前から私は彼をそう呼んでいた)に頼むために昨春、会いに行った時のこと。第一声で「トークショーに出ろと言っても絶対に嫌だよ」と言われた。こういう相手が何も言わないうちに放つ先制パンチはアナクラ氏の得意技だ。昔とまったく変わっていないのが嬉しかったが、私は「いや、まったく違うよ。Gスピでアナタにインタビューをしたいんだ」と私は切り返す。アナクラ氏は意外そうな顔をしたが、まだ表情が硬い。だが、「聞きたいのは国際プロレスのことなんだ」と言うと、表情が微かに緩んだ。しかし、そこから「でも俺は…」と「そこをなんとか…」のせめぎ合い。一滴も飲まず、店を変えて、約6時間続く。そしてやっとのことOKが出た!何せ、昔からNOと言ったら、テコでも動かない、自分の考えを変えない人だったから…正直、メチャメチャ嬉しかった。それ以上に嬉しかったのは、いろいろあったけど40年以上の空白を埋めて、20代頭のピュアだった時のように気軽に話せる仲に戻れたことだろう。
そして始まった短期集中連載。私はインタビューをして十分以上の手応えを感じた。でも、アナクラ氏はまだ半信半疑だったかもしれない。出来上りの本を見るまでは…。それはそうだろう。彼も私と同様、長く編集者をしてきたわけだから、昔馴染みとは言え、私がどう原稿をまとめるか、どれだけページを取って、本の中でどういう扱いにするのか、そこまで見ないと納得いかないはず。それで本が出来て「どうだった?」と聞くと、「俺は怒っている」とのメールでの返事。えっ、何が気に食わなかったのか…。聞けばタイトルだった。「シッシーの…」というシッシーという名が今の彼にはお気に召さなかったのだ。だったら「ジチョー」の方がよかったのか。正直“かーっ、面倒くさい人だな”と思った。じゃあ、連載のタイトルを変えようかとも思ったけど、一度付けたタイトルを下すのは編集者として、あまりやりたくないのは確か。しかし、それも例の先制パンチだった。「そこまでしなくていいよ。それよりも…」と語調が変わる。「中身は最高だったよ。あんなにページを取ってくれるとも思わなかった」と一転してお褒めの言葉。「あのタイトルの、あの写真。吉原社長が草津を肩車にした写真、あれがまさか出てくるとは思わなかったよ」。それは1971年12月12日、台東区体育館のメインのフィナーレのシーン。アナクラ氏が生で観た、国際プロレスのベスト興行であり、ベストシーンであった。
「表紙に自分の名前が著名選手たちとともにあって、本屋で週プロの隣に並んでいる図」もアナクラ氏自身を満足させるものだったようだ。信頼感を持ってもらった2回目以降は阿吽の呼吸でインタビューが進んだ。先に「次回は何年までやろうと思う」と伝えると、事前に予習もしてきてくれる。そこは編集者というか、生真面目な性格が聞き手の私を助けてくれた。だから毎回、肩がこることもなく、楽しい取材が出来た。私がトークショーなどイベントへ行くと、この連載の愛読者が多いことに気づかされる。「僕は毎回、宍倉さんの連載から最初に読んでますよ」、「まだまだ、連載続くんですよね。一番楽しみにしているんで」、「宍倉さんは国際プロレス・ファンの代表中の代表ですよ。僕らの知らない国際をしっかり観て来た人。すごいと思います」…このような声をたくさん掛けてくれた。いくらレア感のある人とはいえ、これほど反響のあるとは正直思わなかった。私自身、こういう彼の人とはかなり違う人柄や尋常でないマニアックさが誌面を通じて外に出せて良かった!と思う。
そして連載の最終回の取材は11月4日。“クランクアップ”を前に私は一抹の寂しさを感じた。短期と言いながら7回も続いた連載。大塚直樹氏や舟橋慶一氏の連載の時もそうだが、最終回の日は、ああこれで…という寂しさを感じてしまうものだ。それは生身のご本人に接してきたから余計強く抱く感情なのかもしれない。だから、アナクラ氏に最後のインタビューをする1週間前にムクムクと芽生えた。ダメ元でだが「トークショーをオファーしてみよう。連載の愛読者たちに感謝の意味を込めて…そういう趣旨で頼んでみよう」だった。それをインタビュー終了後に頭を下げてお願いする。「頭を下げないでよ」と言われたけど、ここはひたすら頼むしかない。その場は保留となり、1週間くらいして連絡したら、ナナナんとOKが出たのだ。まあ、そこもいろいろ誤解している部分を取り除いてのOKではあるが…。それにしても過去15年間、55回このイベントを開催し、いろんな選手以外にも櫻井康雄氏や新間寿氏など大物ゲストを呼んできたが、OKが出てこれほど嬉しかったことはなかった。
ポスターには「ゴング戦友シリーズ」と入れた。これまでにウォーリー山口くん、小佐野景浩くん、小林和朋くん、原悦生さんなどゴングで一緒に働いた戦友たちに何回もゲストとして足を運んでもらった。そう、みなさんには週プロやデラプロのイメージが強いかもしれないけど、アナクラ氏は月刊ゴング時代からの大事な戦友で、同じ竹内学校の門下生である。2012年5月に竹内さんが亡くなった時、お通夜にやってきたアナクラ氏は、ウォーリーと一緒にもうお開きですと言われながらも、最後までご霊前で「やっぱり、ゴングだよな」「絶対、竹内さんですよ」って涙を流して酒を酌み交わしていた。その姿が私には今も忘れられない。そのウォーリーは7年後に他界し、海外情報通の吉澤幸一さんも昨年他界された。連載でも出て来たように2人はアナクラ氏が会長をしていた国際プロレス・ファンクラブ「MAT FAN」の会員で、そこからゴングへと繋がる長いお付き合い。70年代後半、私はウォーリー、アナクラ氏とともにザ・マニアックスというゴング編集部予備軍として原稿も書いたし、プロレス8ミリ大会を都内や大阪、名古屋などで一緒に開催した。あの時に司会や進行役でファンの前でトークする術も学んだ。アナクラ氏は私にとってあの時代を語り合える唯一の人となってしまった…だから「寂しい」が出たのだと思う。私が今やっているトークショーは、あの8ミリ大会の延長線にあるイベントだと思っている。諏訪在住の吉澤さんは、「今回はどんな話をしたの?」、「次のゲストは誰の予定なの?」と私のトークショーの報告を受けるのを大の楽しみにしていた。そんなことから、いつも「元気だったら竹内さんをゲストに毎回呼びたかったのに…」と悔やむ。その一方で、「竹さん、今日のイベントの出来はどうでしたか?」と私は終了後に、いつも天に問いかけてきた。なぜならば、8ミリ大会の続編…あのトークショーを続けることは竹さんからの最後のミッションだと思っているからである。だから生前縁の深いアナクラ氏がゲストとして出る、12月29日のイベントは天国の竹さんとウォーリー、吉澤幸一さんにしっかり観て楽しんでもらいたいと思うのです。