ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第670回】戦うキャンディーズ

またメキシコからアミーゴの訃報が届いた。6日、エル・シグノこと(アントニオ・サンチェス・レンドン)が亡くなった。享年69。転倒して入院後、糖尿などの合併症で衰弱死したとか…。

私が初めてメキシコへ行った1979年1月、グラン浜田は髪の毛が短かった。聞けば12月のエル・トレオのカベジェラ戦で負けたという。誰に負けたの?と訊ねると「エル・シグノだよ」と答えが返って来た。シグノと言えば最軽量のライト級でUWA世界王者になったことのある童顔のルードということは知っていた。ミドル級からライトヘビー級にならんとしていた浜田とは階級が2つも3つ違うのに…「シグノ恐るべし」と思った。

UWA特別顧問のテーズからライト級ベルトを贈呈されたシグノ。

その頃のシグノのパートナーは先輩のロボ・ルビオであった。シグノは優しい愛嬌のある顔に似合わずリング内では荒っぽい試合をする男。だが、リングを降りるとニコニコ人懐こく冗談ばかり言う面白い奴で、一発でアミーゴになった。私が帰国した後、6月にボビー・リーを破ってウェルター級王者となり、UWAの2階級を制覇し、翌80年11月にはエル・テハノ、ネグロ・ナバーロとともにロス・ミショネロス・デ・ラ・ムエルテを結成し、この後に起こるトリオブームの先駆けとなる。

相変わらず傍若無人な栗栖さん。

先週の土曜日に我が故郷・白金台のレストランで大塚直樹氏の音頭と元ジャパンプロレス竹田勝司会長主催による会食にお呼ばれした。そこには髙梨正信ファミリー、猪木啓介氏、栗栖正伸夫妻、そして当日、高円寺でイベントをやった宮戸優光氏が招かれていた。そこで栗栖さんにシグノの死を告げる。栗栖さんはミショネロスが誕生し、爆発的な人気を出て行く過程を現地で見て来たルチャドール仲間。「あいつらの人気は半端でなかったよ。シグノは、いい奴。あれがリーダーだったよ。確かに革命的なチームでしたよ。ああそう…死んじゃったの。若いのにねえ」と寂しそうな顔をした。私が81年9月にメヒコに再訪した時に栗栖さんはメヒコにまだ居た。そしてミショネロスは全盛期だった。彼らの行く会場は大小関わらず何処も異常なまで超満員になる。それが可能だったのはアンドレと彼らだけであった。

初来日直前のミショネロス。

ミショネロスこそUWAの生んだ超ヒット商品であったが、81年秋に初来日。『闘魂シリーズ』で彼らのチームはタイガー組と対戦して全敗。シグノは唯一のジングルをやって前田日明に勝っている(10月14日=熊本)。83年1月に再来日、この時はシリーズ全線ではない特別参加である。ここでもタイガー絡みの6人タッグは全敗だが、開幕の後楽園ホールで邦昭&寺西&クロネコで日本初勝利。他にタイガーの絡まない木戸&星野&浜田とか、星野&栗栖&クロネコなどに6勝している。1月28日までで帰国したのは彼らがメキシコで多忙だったからである。ところがマスコミたちには「早過ぎて誰が誰なのかわからない」と呆れられ、日本のファンにはただのタイガーマスクの噛ませ犬的な存在にしか映らなかったようだ。後年、私がミショネロスは現地でこんな超売れっ子だったんだと、みなさんに説明すると、「全然、知りませんでした。そうだったんですか…」と驚かれる。はっきり言って、彼らは新日本に来ている時間が無駄ではなかったのかとも言うべき大スターたちなのだ。それをどう表現すれば伝わるか、考えた末のいい例えが見つかった。ミショネロスは「キャンディーズ」なのだ。73~78年、あのキャンディーズの爆発的な人気を知っている人なら「それほどなんだあ」と理解してもらえるかもしれない。彼女らが日本を留守にしている間がなかったようにミショネロスも日本へ行っている暇がなかった。しかし、フランシスコ・フローレス代表は新日本のためにこれ以上ない最高の商品を送ってくれた…ということである。蛇足のような例えだが、多彩な才能がありながら早死にしてしまったスーちゃんがエル・テハノで、地味ながら実力派のミキちゃんがネグロ・ナバーロ、リーダー格のランちゃんがエル・シグノという当てはめはどうですか…(こんなオヤジとランちゃんを一緒にするなと、ファンから石が飛んできそうだ)。でも彼らがスーパーアイドルの3人組ということでは合致している。しかし、84年4月の旧UWA旗揚げの時は酷かった。せっかく多忙の“メキシコのキャンディーズ”を呼んだのに対戦相手が足りなかったために一度も3人一緒の出番はなし!毎日、誰か一人がお休みしているという最悪の扱いだった。メヒコで彼らがトリオを組まない時はメンバーの誰かがシングルのタイトルマッチか、カベジェラ戦をやる時だけであった。あの3度の来日でトリセツが分からないまま、我々は贅沢かつ無駄なものを見せられたことになる。唯一、トリセツなしでも扱い方がわかるのが浜田なのに、自分本位の浜田はアグアヨ以外を活かそうとはしなかった…。

84年2月、日本から持って行ったゴング賞の盾を贈呈。
90年6月、ユニバで再生したミショネロスと私の息子。

ユニバやみちのく時代にはシグノと龍泉洞や松島など、いろんな観光地に連れて行ったし、例によって家族ぐるみの付き合いもした。私は彼を「トーニョ」と呼んでいた。アントニオの愛称はトーニョなのだ(だからアントニオ猪木はトーニョ・イノキである)。ユニバ時代、後楽園ホールのファンからシグノに「オヤジコール」が飛んだ。本人も「オヤジ」と呼ばれるのが好きだったようだ。童顔だったシグノもアラフォーになっていた。ギョロっとした目、大きな頭はメキシコ人にしては珍しい…オアハカの生まれだから、サポテカとかシュミテカなどの先住民族が多いからか(?)。トーニョの顔を見ていると、東洋人に近い…南方系モンゴロイドのようで親しみを覚える。「オヤージ」という単語はあの頃、ルチャドールたちの中で流行っていた。シグノは私より2つだけ上…あんなに元気で動けた男がねえ…トーニョの冥福を祈ることにしましょう。

さて、48年前に猪木vsアリが行われた“6月26日”…GスピリッツVol.72が発売される。まず表紙を公開しましょう。オフィシャルのコンテンツも、もう発表されるはず。この表紙にあるように第1特集は「アントニオ猪木 日本プロレス除名事件」。日プロの元経理部長の三澤正和氏に私が2日間、計7時間にわたる超ロングインタビューをしています。中身は日本プロレス界を根底から覆すような仰天の裏話の連続だ。昭和プロレスを震撼させたこの猪木除名事件…これはその最終検証なので超必見!そして第2特集のスタン・ハンセン。こちらは時間限定のインタビューをしている。私がハンセンにインタビューするのは、23年ぶり。今回は彼の「青春」にテーマを絞った。お楽しみに…。後は連載のシッシーの国際話1979編、マイティ井上のタッグ話の後編、それに付随するIWA世界タッグのチャンピオンベルト秘話、グラン浜田ストーリーの中編など(今回も少し仕事をし過ぎたかなあ)。どれも力作なので楽しみにしてください。来週は次号に関してもう少し、詳しくお知らせしよう。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅