ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第631回】嗚呼、大往生

 吉澤幸一さんの死で胸に大きな風穴の空いてしまった私の胸に追い風が吹く。訃報は重なるものである。それはメキシコから届いた。EMLL2代目代表のサルバドール・ルテロ・カモウさんが8月15日に亡くなった。1925年1月7日生まれだから98歳の大往生だった。先日、メキシコ国立歴史人類研究所(INAH)とメキシコ国立世界文化博物館(MNC)が主催するシンポジウムにオンエアで出演した時、「9月16日のアニベルサリオでカモウさんにお会い出来るのが楽しみです」と私は語っているが、正直な話、98歳になるカモウさんが現場に来られるのかはクエッションであった。そして届いた悲報に“やっぱりそうか…”と落胆した。

私が79年に初対面した時の写真。

 我々プロレスファンが彼の名前を初めて知ったのは1970年…駒と星野がメキシコに遠征した時かもしれない。当時の日米のマスコミの呼び方や記述は「サルバドール・ルッタロース・ジュニア」あるいは「サルバドール・ルッタロースⅡ世」だった。いや、それ以前、米国誌に載っていたことから入った知識かもしれない。つまり日本で最初に認知されたメキシコのプロモーターはこのジュニアの方で、シニア(サルバドール・ルテロ・ゴンサレス)が1933年にメキシコでプロレスを始めたなんて誰も知らなかった。この国のプロレスの歴史を知ろうなんて段階では全然なかった時代といえる。70年の段階で我々はまだそのメキシコの団体がエンプレッサ・メヒカーナ・デ・ルチャ・リブレ(EMLL)という名であることすら知らない。メキシコのプロレスが「ルチャ・リブレ」と言われるのがわかるのは、70年代後半のことである。70年に駒、星野、柴田らが遠征してもメキシコはプロレス地図においてアマゾンのジャングルの奥地のような未開のエリアだったのだ。

ナショナル・ヘビー級ベルトをチェック。

星野や駒から送られて来たメキシコ雑誌の複写がゴングやプロボクにチラチラ載るようになったこの頃、中学生の私はラヨ・デ・ハリスコとソリタリオが空中でぶつかり合う写真を見て興味をそそられる(後に背面トペだとわかるが…)。そして71年2月のミル・マスカラスの初来日…私の夢は「いつかミル・マスカラスを生んだ国の歴史と全貌を調べたい」になっていた。その思いは同年8月に櫻井&竹内両氏がNWA総会取材のためメキシコへ行ったことにより加速する。このNWA総会のホストが副会長のカモウさんで、サム・マソニック会長の依頼で議長をしている。カモウの父シニアは38年の段階で旧NWA(ナショナル・レスレング・アソシエーション)と提携…さらに52年9月のサンタモニカの総会でEMLLのNWA(ナショナル・レスレング・アライアンス)への加盟が認められ、ルテロ親子はメンバーとなる。だから54年に世界王者のルー・テーズを招聘できたのだ。59年に新しいベルト(キニスキータイプ)をNWA本部に贈呈し、60年にはアメリカ人セレブたちにとっても憧れのリゾートだったアカプルコでのNWA総会の開催…この時もカモウさんがホストと議長をしている。故に米国誌には「サルバドール・ルッテロース・ジュニア」の名が時折登場していた。

アカプルコ総会時。左下がチャボさん。

 79年に私がメキシコに初取材した時、アレナ・メヒコの事務所でお会いした。選手たちはその厳格さに怯えていたが、私の前ではとても笑顔がソフトな紳士であった。日本から来た22歳の若造記者を歓待してくれたのである。その頃、選手たちはみんな彼のことを「チャボ」と呼んでいた。サルバドールは子供が発音できなくてチャルバドール…さらに縮まってチャボになったと言われる。サルバドール=チャボ…チャボ・ゲレロの名もサルバドールである。ちなみにチャボには子供とかガキみたいな意味もあるので親しみやすい。ここから先はカモウさんではなく、チャボさんと記す。その方が当時の感覚が蘇るからだ。しかし、チャボさんは私と初めて会った79年の夏に退陣して後継の甥・パコ・アロンソ・ルテロに代表権を譲り、ティファナで別事業を始めてしまった。だから次にお会いしたのは91年にアレナ・メヒコで行われたアニベルサリオ前の会食パーティーに招かれた時だった。その時は父のルテロ・ゴンサレスさんもいらっしゃっていた。私が初代に会ったのはその時だけで、チャボさんは笑顔でお父君を紹介してくれた。

父のルテロ・ゴンサレスさんと。

 チャボさんが当主として実質的にエンプレッサを仕切ったのは60~70年代。エル・サント、ブラック・シャドー、ブルー・デモン、ウラカン・ラミレス、レイ・メンドーサ、ラヨ・デ・ハリスコ、ミル・マスカラス、エル・ソリタリオ、ドレル・ディクソン、ティニエブラス、アニバル、レネ・グアハルド、カルロフ・ラガルデ、アンヘル・ブランコ、ドクトル・ワグナー、アルフォンソ・ダンテス、フィッシュマン、ペロ・アグアヨら大スターたちが揃った史上最強の時代だ。マスカラスは「チャボ・ルテロはメキシコ最高のプロモーターだった」と私にはっきり言っていた。チャボさん政権の最晩年で活躍したのがサトル・サヤマ…訃報を伝えたら「ああ、まだ20歳の僕を目に止めてくれて、プッシュしてもらいました。本当にお世話になった恩人ですよ」と残念そうだった。

左から甥のパコさん、息子のロメリさん。

 2013年9月11日の80周年絵画除幕式にご招待を受けた時にチャボさんと22年ぶりに再会…とっても興奮したのは10年前のこと。「来年、また来ますから、その時はインタビューお願いします」。約束通り、翌年9月18日、アレナ・メヒコ事務所でチャボさんに3時間のロングインタビューをした。途中、水一杯も飲まずに私の質問攻撃にしっかり応えてくれた。その矍鑠(かくしゃく)とした態度と記憶力の良さは敬服するしかなかった。GスピVol.36~38に連載したこのインタビューこそ、やっておいて良かったと改めて思う。あの時、チャボは89歳。「こう見えても私はティファナでボクシングのトレーナーもしているんですよ。その写真いりますか?」。私が帰国した後にネットで練習風景の写真まで送って下さった。なかなか、するよと言って、実際にしてくれるメキシコ人はいない。「さすがビッグボスは違うなあ」と思った。超大御所からメールは恐縮の極みだった。

2017年8月、最後のツーショット。

最後にお会いしたのは2017年8月のメキシコシティのセントロ・コンベンシオネスで開催された『ルチャ・エキスポ』の会場。「またメヒコに来てくれたのかい。会えて嬉しいよ」…92歳になってチャボさんはお元気だった。その日、会場内に設営されたリングにはエストレージャたちがたくさん上がってスピーチが始まった。チャボさんも中央に立った。ルチャドールたちの中から「トマスも上がって来いよ」「こんな記念は滅多にないから上がりなよ」という声が出たが、私は「いいよ」と辞退する。なぜならば自分が撮られるよりも、マスカラスが「ヌメロ・ウノ(一番)のプロモーター」と称えたチャボさんと仮面貴族のツーショット写真のほうが欲しかったからだ。1965年のアレナ・メヒコでのデビュー戦から目をかけて、アメリカでの大成功後もマスカラスを温かく受け入れているし、75年のオポジションUWA旗揚げに参戦したマスカラスをすぐさまアレナ・メヒコにも上げてサントとともにフリーランス扱いしたのもチャボさんだった。このツーショットが撮れたことで、私自身何か一つの区切りのようなものを感じた。「マスカラスを生んだ国の歴史が知りたい」と夢を描いてから、46年が経っていた…。

マスカラスとの大事な写真も撮れた!

 来月、メキシコへ行く時にチャボさんにはお会いできなくなってしまったが、彼の熱い思いが染みついたアレナ・メヒコの事務所と館内で合掌して来たいと思う。今は改めてGスピVol.36~38の連載を読み直しながら、氏の偉大なる功績を偲びたい。よろしければ、みなさんもぜひどうぞ…。

Descanse en paz

 

 

 

 

 

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