北海道へ行ってきました。横浜から往復5000キロ、22泊(車中7泊)のロングドライブ…長旅でした。久しぶりのコラム…今回から数回にわたって、この旅の最中に立ち寄った「現存する昭和の体育館」を紹介していきたいと思う。私が横浜を出たのは6月14日の朝。東北道をひた走り深夜に青森港に着き、そこからフェリーで函館にわたる。朝市のウニ丼を食って50年ぶりに五稜郭へ行って土方歳三埋葬地であろう盛り土を確認。その後、函館競馬を楽しみ、市内の湯の川温泉泊。翌日は恵山から世界遺産の縄文遺跡を見た後、鹿部を経て大沼プリンスホテル泊(ここも温泉だった♡)。その後、渡島半島を南下して開湯800年、北海道最古の天然温泉といわれる知内温泉で3泊目。知内は青函トンネルの道内側の出入り口がある町でもある。翌日、さらに南下して松前町を目指す。その途中に寄ったのが福島町。ここはあの大横綱の千代の富士の出身地として有名になった。千代の富士(第58代)だけではない。第41代横綱・千代の山(1951年昇進)の出身地でもある。千代の富士が生まれた頃には人口1万2千人だった漁業と水産加工を生業とする小さな町から2人の横綱が出たというだけで奇跡の土地といえるかもしれない(現在の人口は約3300人)。

町の中心地には両横綱の功績を称える立派な「千代の山・千代の富士記念館」が建っていて、じっくり見学させてもらった。そして同じ町内にある「青函トンネル記念館」も見学。道南の歴史からトンネル完成の経緯などを詳しく知ることが出来た。でも、最初からここへ行く予定ではなく、「ああ、こういう施設があるんだ」と立ち寄っただけで、私が本当に行きたいと思って狙いを定めていたのは「福島町総合体育館」であった。“何もこんな田舎町の体育館に寄らなくてもいいだろ”と言われるかもしれないが、いえいえ、私にとっては、いや元ゴング編集部の一員にとっては思い入れのある体育館なのである。

1981年別冊4月号。私が日本スポーツ出版社に入社して初めて携わったのがこの号。その編集会議で竹内編集長が「タイトルマッチをやるような都市にある体育館ではない田舎の会場にだってプロレスがやって来るわけだろ。そんなローカルプロレスの光景をカラーの誌面で伝える企画をやろう」と発案。その場で『オラが町にプロレスがやって来た』というタイトルが付く。その第1回に選ばれたのが全日本プロレス『エキサイト・シリーズ』第12戦、2月24日、ここ北海道・福島町総合体育館であったのだ。その取材に飛ばされたのは、私ではなくウォーリー山口くんだった。全日本プロレス一行は前々日が二戸市体育館だったから23日の青函連絡船で函館に入り、国鉄・松前線に乗って福島町へ入ったのであろう。ウォーリーも函館空港まで飛行機で飛んで、函館駅から松前線で約2時間、雪の渡島福島駅に到着し、現地取材を開始したと思われる。ちなみに松前線は、7年後の88年2月に廃線になっている。ではなぜ、こんな辺鄙な場所を新企画の第1回に竹内さんは選んだのか。それは、当時この小さな町が千代の富士フィーバーで日本中から注目が集中されていたからだ。改めて記念館の年表で確認すると、「昭和56年1月場所 初優勝と同時に大関昇進。5度目の技能賞と初の殊勲賞を受賞」とあった。まさにその初優勝直後に全日本プロレスが福島町で興行を打つ…大相撲ファンでもある竹さんは「これだ!」と思って、この企画自体を考え、「第1回は、ここしかない」と思ったのだろう。

そういう意味で福島町はあの旅企画の原点となった。この町は津軽海峡に面していて対馬海流の影響で温暖で、真冬も-15度以下にはならないという。でも東京から行けば2月の北海道は極寒の地だ。ウォーリーも雪の中、展望公園に登ったり、日本側とガイジン側の旅館へ行って一生懸命取材していることが改めて誌面から窺い知ることが出来る。ちなみにこの日のメインは馬場&鶴田&小鹿vsディック・マードック&キラー・カール・コックス&ボブ・ブラウンの6人タッグで決勝の3本目は小鹿がブラウンを押さえている。ちなみにこの興行は小鹿さんのお兄さんの信一さん(小鹿建設会社代表)が打った興行だった。小鹿さんは函館が地元だからね。でも、今回の旅で日高の知人が「小鹿さんって育ちは函館でも、生まれは様似らしいよ」と教えてくれた。襟裳岬に近い日高本線(2021年廃線)の終点・様似が出生地だと言う。今度、小鹿さんにお会いしたら改めて聞いてみよう(様似の体育館と同地に来たプロレスについては昨年2月のコラムで触れている)。

さて、81年2月24日の福島町…その日のセミはタイガー戸口vsマリオ・ミラノで、その下はドス・カラスvsツウィン・デビル2号、佐藤昭雄vsツウィン・デビル1号だった。ドスは79年暮れの最強タッグの函館と札幌で雪を見ているだろうが、グアダラハラ生まれのツウィン・デビルズ(ロス・ヘメロス・ディアブロス)にとっては人生初の白銀世界だったはずだ。この体育館は77年3月竣工で、年金積立還元融資を受けて3億5359万9千円の事業費で建設されたもので、補修・増築の跡はみられるものの、ウォーリーの撮った81年の写真と外観は一緒…48年経った今も現役であった。館内の展示コーナーには地元の英雄・千代の富士の写真がたくさん飾られていた。そういえば先週土曜日、この福島町内で新聞配達員の男性がヒグマに襲われて死亡する事件が起きた。一昨年には同町にある大千軒岳で北大生がクマに襲われて殺されている(道内では1970年以来の惨事)。登山口まで行ってみたがゲートは今も閉鎖されたままだった。今回の事件現場の福島町三岳という地区は体育館から1キロくらい北にある市街地である。恐ろしや恐ろしや…。



この後、福島町にプロレスが来た形跡はない。続いてここから西に21キロ離れた松前町へ行く。松前は江戸時代に松前藩が治めた蝦夷最南端の町で、アイヌとの交易でサケ、昆布、ニシン、毛皮などを手に入れ、北前船で上方(京都・大阪)に送って利を成した。故に天保年間には1万を超える都市であったが、明治以降は函館に国の主要港が移ると、松前は人の往来も人口も減り、現在は6200人程度の静かな城下町になっている。

福島町にプロレスが来たのは、あの81年2月の1回だけだったが、松前では昭和期に3度プロレス興行が打たれている。最初は国際プロレス。1972年『ビック・ウインター・シリーズ』第6戦(11月6日)の松前町体育館大会。メインがストロング小林&グレート草津&大剛鉄之助vsキラー・オースチン&マリオ・ミラノ&ブル・バリンスキー。セミがマイティ井上&田中忠治vsダイドーネ・ムッソリーニ&ホセ・アローヨ。後半戦のブルクラが特別参加したシリーズで、この松前の2日前には1度目の羅臼で試合をしている。滝川を経由したとはいえ、北海道の東の果てから最南端まで恐ろしい距離を2日で移動して来たことになる。次に松前で試合をしたのは日本プロレスだ。それも最晩年の73年の『新春チャンピオン・シリーズ』。このシリーズ、1月5日の後楽園ホールで坂口がミスターX(ジム・オズボーン)を相手にUNの防衛戦をやった翌日から北海道の道南、それも今回、私が最初に旅をした渡島半島をフラフラ迷走するのだ。BIが去ってしまったとはいえ、天下の日本プロレスが今まで一度も廻ったことのない田舎町を転々とするのである。1月6日がソーラン節発祥の江差町、7日が元大関・大受の故郷でイカとじゃがいもの町・瀬棚(現・せたな町)。8日が、私が北海道最古の温泉宿に泊まった知内町の小学校。そして9日が松前町の体育館だった。メインでは犬猿の仲の坂口と大木が組んでザ・スポイラー(ドン・ジャーデン)&マイティ・ヤンキーズ1号(ビリー・スペアー)と対戦。セミが高千穂vsミスターXであった。そして恐らくこれが最後と思われる松前大会は76年の全日本。『第4回チャンピオン・カーニバル』の第29戦(5月3日)。前々日が日大講堂のビッグマッチで、公式戦で馬場vs鶴田があり(馬場勝ち)、大流血のブッチャーvs大木(両リン)があった。そこから中一日の移動で松前へやって来たというわけ。ゴールデンウイークの憲法記念日に祝日だから試合開始が午後2時。恐らく試合後に松前線で函館にハネたのではと思われる(翌日は長万部)。公式戦は馬場がザ・ビーストと時間切れドローだった。おいおい、それではビーストの方が鶴田より強かったことになるじゃないか。

それはともかくとして松前町の体育館へ行ってみた。いや、行ってみたのではなく、偶然見つけたと言ったほうが正しい。私は大館という松前城の前身の城の資料をもらいに神明という地区にある郷土資料館へ行った。するとその隣に体育館らしき立派な建物を発見。今は廃墟になって、まったく使用されていない様子。調べると、ここは間違いなく、オースチンやスポイラー、ブッチャーが来た松前町体育館であった。使用されなくなってから10数年近く経過しているかも…。北海道は土地が広いし、壊すのにも費用がかかるからか、建て替えずに放置してしまうケースが多い。一応、災害時の避難場所に指定されているようだが…建設当時はモダンだったであろう外装も朽ち果てて見るからに不気味な雰囲気であった。中からビーストが飛び出て来たらホラーである…。町内の三岳という地区に新しい総合体育館で出来ているようだが、そこには寄らずに先に進むことにした。それでは、また来週…。
