今週も小倉にあった初代の三萩野体育館(北九州市小倉北区三萩野)について書きたい。小倉は城下町である。毛利氏が築き、細川氏、小笠原氏が代々城主を務めて拡張してきた小倉城(1569~1866)の総構(そうがまえ)…東曲輪から城外に出る香春口門の外堀の外側に三萩野はあった。

慶応2年(1866年)に小倉城は廃城…そして明治中期に三郎丸村、萩崎村、片野村が合併して三萩野村になった。実は大正8年(1919)~昭和6年(1931)まで、ここに競馬場があったことはあまり知られていない。開場当時、馬券は販売されていなかったが、4年後に(旧)競馬法が施行されて馬券発売が解禁される。以前このコラムで上諏訪競馬場の話をしたときに触れたように昔、競馬は相撲や芝居の次なる庶民の娯楽だった。大正、昭和初期の地方でのお祭り以外の娯楽と言えば相撲の巡業、草競馬、戦後はプロ野球の地方大会、そしてその次にプロレスの地方巡業と続く。日本には明治から昭和初期、戦後まで日本全国に約130箇所も競馬場が存在していたのを知っていますか…。その数は昭和プロレスで使用された市クラスの体育館と同等だった。だが、開催日が短く、広い土地を維持しなくてはならない競馬場は馬券が売れなくなるに連れて次第に衰退し、現在ではJRAが10場、地方競馬15場のみとなってしまった。九州にもかつて20数箇所あった競馬場が今では小倉(JRA)と佐賀の2場のみに…。さて12年間続いた三萩野競馬場は手狭になり、1932年に現在の小倉競馬場(現・小倉南区北方)へ移転することになった。廃場となった競馬場の跡地というのは公共施設、学校、工場、病院、球場、住宅地、農地などになるケースが多い。三萩野競馬場の跡地は戦後、運動公園となり、ここで昭和23年秋に国体の自転車競技が行われた。それによりここは「競輪発祥の地」となり、記念碑が体育館の近くにある(現在もメディアドームで開催)。そして国体をきっかけにスポーツ振興の機運が盛り上がった小倉市は三萩野に屋内の体育施設…「小倉市体育館」を建設したのである。

さて前置きが長くなったので初代三萩野体育館でのプロレス興行の続きを書こう。前回は私が初めて三萩野の試合をテレビ観戦した1968年5月3日の『第10回ワールドリーグ戦』第24戦のところまで書いた。実はこの年の正月に国際プロレスが初めてここを使っていたのだ。ルー・テーズがグレート草津をバックドロップで失神させた1月3日の日大講堂…あの2日後のシリーズ第2戦が小倉だったのだ。メインは4年ぶり小倉登場の豊登が草津と組んでダニー・ホッジ&ブルドッグ・ブラワーと対戦。セミではサンダー杉山が反則絡みの2-1で新TWWA世界王者のテーズを破っている(10日の大分のタイトル戦の前哨戦)。国際は翌69年2月6日に再び小倉へ来る。そしてこの体育館で初のタイトルマッチが行われた。草津vsジョー・コーネリウスの英国南部&西部ヘビー級選手権である。一方の日本プロレスは『第12回ワールドリーグ戦』第31戦(5月11日)でテレビが入った。前年からスタートしたワールドプロレスリング中継(NET系列)で、猪木が大本命のドン・レオ・ジョナサンとメインで対戦して熱戦の末に1-1のドローとなる。猪木はバックドロップで1本取ったと思う。セミは馬場vsザ・コンビクトの公式戦だったけど、ルール上NETは馬場と坂口は放映できない。この巨人対決は観たかったのに残念…。小倉での善戦の勢いで猪木は松本(22日)での公式戦においてジョナサンを破る大金星を挙げる。だが残念ながらノーTVだったので、この殊勲の白星の印象は薄い。そして結局連覇も逃している。


国際の小倉三萩野というと、どうしても71年3月4日の『AWAビッグファイト・シリーズ』第5戦のことを思い浮かべてしまう。ここでサンダー杉山がビル・ミラーに敗れてIWA世界ヘビー級王座が海外へ流出することになる。このタイトルマッチは急遽、決まったもののようでマスコミは現地へ行っていない。だから本当に行われたのかが未だに謎なのだ。例えシングルが行われていたとしても、ベルトが本当に掛かっていたのか…。本当にこういう結果だったのか…(何か怪しいんだよね)。杉山はここまで9度防衛して来たけど、その全部が60分3本勝負だったのに、この日の公表された試合結果はなぜか60分1本勝負だった。当日だけでなく翌日の最終戦の福山大会もマスコミが行っていないので、ミラーのベルト姿の写真は一枚もない。故に「?」が強まる。私はあのIWAベルトはミラーが持ち帰らず国際の事務所にあったと思っている。同年6月にミネソタ州ダルースで行われたとされるミラーvsストロング小林…後の調査でそんな試合が行われた事実はないと判明。そして赤と青のあのベルトは羽田空港での小林凱旋の時に再び登場することになる。「その推理は間違っていますよ。確かにIWA戦が行われ、杉山が負けてミラーがベルトを巻くのを私は観ましたよ」という小倉のオールドファンが、もし居たらと思う。あの日、三萩野で世界が本当に動いたのか…55年経った今も謎は解けていない。

日プロは第1回からずっと12回まで1965年以外ずっと続けてきたワールドリーグの小倉大会がストップ。71年は秋の『NWAタッグリーグ戦』が小倉だった。だが、72年5月3日の第14回のWリーグ戦で復活…ただし、これが日プロ最後の小倉となってしまった。すでに日テレは中継を打ち切っていた時期で、リーグ戦も活気がなかった。一方、国際はと言うと、この72年に『新春パイオニア・シリーズ』の開幕戦(1月5日)を三萩野でスタートしており、初めてTBS系列のテレビも入った。生中継におけるメインはカーチス・イアウケア&ダン・ミラーvs杉山&寺西、セミが小林&浜口vsローム・マスク(ジルベール・ボワニー)&ジ・アベンジャー(ハム・リー)。でも、テレビ放映が終わった後、現場での本当のメインは木村vsケニー・ジェイの金網であった。

日プロ崩壊後のベスポジ(ゴールデンウィーク)を奪ったのは国際プロレスだ。73年5月5日大会はストロング小林vsターザン・タイラーの金網がメインであった。74年1月5日の新春開幕戦も小倉で、メインは小林vsジェリー・ブラウンの金網。75年1月10日もメインは井上vsダニー・リンチの金網だった。小倉のファンは金網中毒にさせられていく。だが、国際の三萩野はここで終わっている。では72年に旗揚げした新日本はどうだろう。同年10月13日に三萩野で初興行。小倉はかつて化粧品セールスマン時代の顔があったから新間氏の営業力も手伝ったことであろう。もちろんここは豊登の地盤で、この周辺のプロモーターは豊さんのタニマチの魚屋さんだったらしい。日プロ、国際に続いて新日本でも豊登は故郷に近い小倉に錦を飾っている。翌73年5月7日大会はタイガー・ジェット・シンがビザの書き換えを終えて再乱入。74年3月7日の新日本は国際以来3年ぶりにアンドレが小倉に再登場している。75年5月3日、日プロの定位置(ゴールデンウィーク&Wリーグ戦)を引き継いで『第2回ワールドリーグ戦』を打つ。公式戦の最注目カードで、ストロング小林が大木金太郎の連勝をストップさせる逆転フォールを飾っている。新日本の76年は2度使用…1月10日に続いて4月30日の『第3回ワールドリーグ戦』においてテレビ生中継。公式戦では坂口がマサ斎藤を破り、猪木がキラー・カール・クラップを破る。だが、これが新日本最後の三萩野となった。

全日本プロレスの三萩野はどうだろう。初使用が73年1月10日。74年と75年は八幡東区八王寺にある北九州市総合体育館を使っている。そして76年7月17日に三萩野を再び使用する。それが鶴田の試練の10番勝負第4戦のvsロビンソンで、テレビ中継もあった。試合はスープレックス合戦の末、1-1からの時間切れドロー。10分延長も再ドロー。これは前年12月の猪木vsロビンソンを意識したような結果で、鶴田は猪木と同格というイメージを与えるもので、馬場自身は一週間後の蔵前でロビンソンを2-1で破っている。それは暗に馬場≧猪木を想起させる後出しジャンケンのように思えた。その三段論法、いや四段論法の一つのポイントとなった鶴田vsロビンソンの初対決…これが1954年から23年間続いてきた三萩野でのプロレスの最後の興行となった。これで初代の北九州市三萩野体育館は取り壊され、翌77年に私が昨年末に寄った2代目の三萩野体育館が竣工するのである。

そしてその先、プロレス興行の舞台は小倉駅の北にある西日本総合展示場(小倉北区浅野)に移る。ここを最初に使ったのは78年3月7日の国際プロレス。初期で有名になったのは木村健吾vsブレット・ハートのNWA認定インターナショナル・ジュニアヘビー級王座決定戦であろうか(80年7月23日)。こうして三萩野でのプロレスは静かに幕を閉じたのである。“三萩野や兵どもが夢の跡”…。 来週からは、極寒の北海道へぼやき旅に出るのでこのコラムは2週間お休みにします。再開は2月18日からです。