ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第745回】三萩野のプロレス史 (1)

昨年12月半ばに北九州へ行った話を書いた。豊登が眠るお寺へ行ったことを書いた話、憶えているかな…。あの後、中津から日田、久留米を通って熊本まで行こうと思っていたけど、眼鏡の柄がポッキリ折れて急に戦意喪失。豊前市からUターンして1000キロを走って横浜に戻ることにした。それで小倉まで行って満タンにして帰ることにする。私はドライブする時、カーナビを完全に信用していない。時折、遠回りを教えたりするからだ。だから私は必ず県別の地図を持って行く。印刷物で育った人間としてデジタルものより、紙を信頼している。広域のものを調べるのには本の地図が一番なのだ。それで小倉市内を調べていたら「三萩野体育館」という文字を発見。“ええっ、三萩野体育館ってまだあるの!?”と驚いた。私のような古い“プロレス者”にとって小倉といえば、「三萩野」と刷り込まれているからだ。熊本市の水前寺のように別の地名が盛り込まれている体育館は珍しいので、自然と憶えてしまうのだ。

三萩野はスポーツ施設がいっぱい。


夕方だったけど、夜を徹して中国道、名神、東名を走る予定なので、ガソリンを入れる前にちょっと寄って行くことにした。施設の入口には「市立三萩野体育館」と書かれてあった。そして外観はかなり古い。私自身、ゴング時代に三萩野体育館に取材で来たことがない。小倉で来たのは北の埋め立て地にある西日本総合展示場だけ。三萩野の体育館の中に入ってみると、やたらと狭い。これはプロレスをやっても1000人入らないんじゃないかと思った。管理室の方に「ここは何年に出来たのですか」と訊ねたが、その場ではわからなかった。後日わかったこと…ここは1977年に建て替えられたもので、ここではメジャー団体のプロレス興行は行われていない。ちょっと残念だが、仕方ない。小倉という大都市において、あの狭い床面積でプロレス興行をやるのはちょっと無理がある。

現在の市立三萩野体育館の外観。
現体育館の館内は明らかに狭い。


でも、乗りかけた船だ。帰宅してから、小倉のプロレス史を調べてみることにした。すると小倉では最古級の体育館を使用したプロレス興行が行われていることがわかった。最初のプロレス興行はシャープ兄弟が来日して力道山&木村政彦と蔵前で戦った1954年2月19日の蔵前国技館。その5日後に「小倉市体育館」での興行が行われている。対戦カードは不明だがシャープ兄弟と力道山が絡んだカードであったのだろう。東京体育館や蔵前や大阪府立などは別にして、地方都市でまだ体育館が多くなかった時代に小倉にはもう市の体育館があったのだ。それは昨夏に行った室蘭のように鉄鋼業と港湾施設があって金回りが良い土地だったからなのかもしれない。この小倉市体育館は私が今回行った「市立三萩野体育館」の前身の初代の体育館であることが判明した。正式には「小倉市体育館」と呼ばれていたようだが、1957年の新聞記事には「小倉市三萩野体育館」とある。三萩野とは「三郎丸」「萩崎町」「片野」の三つの町が合併する時に一字ずつ集めて作られた町名だ。1959年から『ワールド大リーグ戦』で毎年必ずここが使われるようになる。第1回の59年6月6日は力道山vsロード・ブレアースがメインであった。60年4月29日の『第2回ワールドリーグ』では、ここから初のテレビ生中継があった。メインは力道山&豊登vsレオ・ノメリーニ&フランク・バロアだった。

フランク・バロア、レオ・ノメリーニ、力道山。


またこの年の9月30日にデビューした馬場と猪木も10月28日の小倉大会に出ている。馬場は長沢秀幸に勝ち、猪木は吉原功に負けている。61年も5月と10月に2度小倉に来ていて、62年は5月6日の一度だけ。この『第4回ワールドリーグ戦』はメインが力道山&グレート東郷vsキラー・オースチン&マイク・シャープ、他にルー・テーズvs遠藤幸吉、フレッド・ブラッシーvs猪木があった(馬場は米国修行で不在)。この試合前に後に歴史を変える出会いがあった。豊登を訪ねて新間寿氏が来たのだ。新間氏は化粧品会社の小倉支店に配属されていて、人形町の力道山道場時代の知り合いの豊登を表敬訪問したのだった。この時、豊登から「俺の付き人の猪木だよ。素質はいい」と紹介されたのは有名な話。アントニオ猪木と新間寿…すべてはこの三萩野の体育館の出会いから始まった波乱のストーリーである。

豊登と新間氏(65年撮影)。

翌63年2月10日に「門司市」「小倉市」「若松市」「八幡市」「戸畑市」が合併して「北九州市」が誕生し、「北九州市小倉体育館」と改名される。そこで4月20日に興行が打たれた。『第5回ワールド大リーグ戦』第25戦、メインは力道山&馬場&東郷vsパット・オコーナー&フレッド・アトキンス&キラーX。セミはキラー・コワルスキーvs遠藤。猪木はそれより4つアンダーで吉村に敗れている。力道山死後も『第6回ワールドリーグ戦』で小倉は使われた。64年4月28日、この日は久しぶりのテレビ中継だが、東京での放送は5月1日であった。メインは豊登&馬場&吉村vsジン・キニスキー&チーフ・ホワイト・ウルフ&ロイ・マクラリティ。新エースの豊登にとって小倉は縁が深い土地なので、支援者が多く張り切ったという(猪木は渡米で不在)。65年にはなぜか小倉でのプロレス興行はなく、66年に再開。4月14日の『第8回ワールドリーグ戦』第17戦は豊登がいない小倉だった。メインは馬場&大木vsペドロ・モラレス&アーマン・ハッサン。この頃の新聞表記は「北九州市小倉区三萩野体育館」である。67年の4月29日の天皇誕生日。『第9回ワールドリーグ戦』第18戦は、同月7日に猪木が日プロに復帰したものの、渡米していて不在。メインは馬場vsマイク・デビアスの公式戦。そして68年5月3日の『第10回ワールドリーグ戦』第24戦。ここが久しぶりのテレビ生中継。私が初めて三萩野を観たのはこの日である。メインが馬場&吉村vsジェス・オルテガ&ターザン・タイラー。セミがコワルスキーvsデューク・ケオムカの公式戦。猪木はブラッシーと小倉でまたも当たり、公式戦で痛い反則負けを喫している。この中継ではわからなかったが、後に試合写真等でこの体育館の奥行きを見ると、かなり広そうに感じた。

初代体育館は庭球場の方向へもっと奥まって広い建物だったはずだ。


現在の現地にある地図と照らし合わせてみると、恐らく初代の三萩野の体育館は奥にある庭球場の半分くらいの敷地を使ったかなり大きな屋内施設だったのではないかと想像できる。ちなみにこの68年5月3日大会の主催者発表は4500人。同じツアーで4500人と発表しているのが旭川市体育館、4000人が福島市体育館であった。そのことからここはそれなりの大きさを持った中型体育館であったことがわかる。小倉は競馬場もあるし、小倉城やら日本最多の畝状竪堀のある豊前長野城もあるから私的には好きな土地。それだけではない。グルメならば「田舎庵」のうな重、「資さんうどん」の肉ゴボ天うどん、「中華そば藤王」の醤油ラーメン、「朝比奈」の焼き鳥、「玉子物語」のオムライス、寿司屋に至っては何処に入っても玄界灘のネタが新鮮で美味しく、博多とは違った食文化に圧倒される。ということで、来週もそんな小倉にお付き合い願いたい。今回の続き…三萩野プロレス最後の8年間を調査報告します。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅